成果報告
2018年度
無知とアイロニー:「知らないこと」の価値に関する哲学的考察と教育的提案
- コロンビア大学大学院 博士課程
- 堀 沙織
哲学においては伝統的に「知ること」あるいは「知識」が論じられてきたし、教育においても「知識」の習得がめざされてきたといってよい。このような中で本研究は、近代的認識論の描像の中ではあまり頻繁に論じられてこなかったテクスト(ジャン・ジャック・ルソー、ジョナサン・リアなど)を手がかりに、ある種の「知らないこと」(「無知」と「アイロニー」)がわたしたちを世界・他者・自己への探究へと「開かれた」存在にするという意味で価値を持つことを示し、それにもとづいた教育モデルを提案しようとこころみる。
本研究ではまずルソーの「無知」のアイディアをとりあげる。「無知」については、近年社会科学を中心に「無知学」(agnotology)という学際的な領域が生まれるほど、特権的な「知」に対する抑圧としてのその問題性に関心が高まっているが、このような流れとは対照的に、ルソーは著書『エミール』においてポジティブに「無知」を描いている。ルソーによれば、「無知」(自身の経験を超えたものに対する「知」を欠いた状態)は、子どもの新しい経験・探究に対する受容性を高め、世界・他者へと「開かれた心」を構成する。このようなアイディアはまた、近代的・分析的認識論が「知識」にフォーカスすることで論じてこなかったもの、たとえばネガティブな認識的概念・認識的価値・認識的なものと道徳的なものとの結びつきなどを、明るみに出すものといえる。
このような無知論は一方で、「開かれた受容的存在であるためには無知でなければならない」という論点を含み、一つの困難、わたしたちが経験・知識を重ねるにつれ、必然的に開かれた受容的存在ではなくなるという困難を孕んでいる。それはまた、わたしたちがどのようにして経験や知識を重ねながらも、他者や世界に開かれた存在でいられるのかという新たな哲学的問いを提起しているといえるだろう。このような問いに応え、本研究が次にみようとするのが、もう一つの「知らないこと」、「アイロニー」である。
「アイロニー」については様々なジャンルで論じられるが、本研究ではアメリカの現代哲学者ジョナサン・リアによる「哲学的アイロニー」をとりあげる。リアによれば、それはわたしたちを構成する概念についてわたしたちがそれまでもっていた既存の理解を一時的に失ってしまう「知らない」「わからない」状態であると同時に、新しい探究(実存的探究)に「開かれた」状態として特徴づけられる。このようなアイロニーと無知を組み合わせた「知らないこと」のモデルは、懐疑論でも不可知論でもない「知らないこと」からはじまる探究のモデルになるだろう。そしてそれは「無知かアイロニーか」というソクラテス解釈上の議論とはまた違った両概念の結びつきを示すことになるだろう(プラトンの対話篇などにおいて、ソクラテスは自らの無知を告白するが、それが誠実な告白であるのか、アイロニーと解釈されるものであるのか、哲学史でしばしば論じられている)。
さらに本研究では、このような哲学的考察にもとづくモデルが高等教育論でしばしば論じられる問題のひとつ、道徳・人格教育に関するジレンマを解決しうるものになると考える。高等教育における道徳教育・人格教育については、一方で青年期におけるその重要性が認識されながらもジレンマの中におかれてきたといってよい。それは、大学生は小学生のようないわゆる「子ども」ではないため、個人の人格・生き方に関わるようなパターナリスティックな教育は行うべきではないという観点から、そして大学教師は研究者であり、大学はアカデミックな教育がメインであるべきという観点から懸念されてきたのである。このようなジレンマにはいくつかのアプローチが考えられるが、本研究のモデルは、あくまで「認知的」状態としての「知らないこと」にフォーカスしながらも、一方そうした消極的状態に学生を導くことでパターナリズムを避け、アカデミックな教育実践における道徳・人格教育の可能性をさぐろうとする。今後はさらにこのようなモデルの具体的な実践方法について考えたい。
2020年5月