成果報告
2018年度
朝鮮半島から日本への都城伝播に関する研究――都城行政と形態の視点から
- お茶の水女子大学グローバルリーダーシップ研究所 特別研究員
- 古内 絵里子
研究の動機・目的・意義
博士論文の執筆時から日本の都城は唐の影響が圧倒的に強いという通説に疑問を抱いていたが、残存する朝鮮半島都城の史料が少なく検証する手段がなかった。だが、近年、朝鮮半島の都城遺跡の発掘が進み、木簡をはじめとする出土文字資料が発見されたことで、文献資料では知りえない都城の様子を知ることができるようになり、疑問を解決することが可能となった。また、これに伴い、2007年には韓国木簡学会が設立され、2015年には韓国内外の百済に関する文字資料を収録した『韓国古代文字資料研究』百済篇(周留城出版社)が出版されるなど、現在、韓国の一次文字資料を活用する研究環境は飛躍的に整っている。ところが、朝鮮半島都城から日本の都城への影響について考察した研究は十分に行われておらず、実質上、未開拓の問題領域である。そこで、本研究では、新出の考古資料を用いて、形態と都城行政の両面から、日本と朝鮮半島の都城の比較を行うことにより、朝鮮半島都城が日本の都城の形成に与えた影響を明らかにし、日本の都城形成に関する研究の再構築を試みる。すなわち、本研究は都城をはじめとする日本の律令制度・社会が、唐からの影響を強く受けて成立したと考えられてきた従来の日本古代史のあり方を一新するものである。
研究成果
朝鮮半島では、7世紀の高句麗の王都は東西南北内の5つの部に区分されていた(『高麗記』)。6世紀から7世紀の百済泗沘城では、城内を上下前後中の5つの部に区分し、その下に5つの巷を置く「部―巷」という行政がしかれていた(『周書』『北史』百済伝、宮南池315号木簡)。新羅王京では、6世紀に坊里制が導入され、地方とは異なる「部―里」制という行政がしかれていた(月城垓字151号木簡、「南山新城碑」)。このように、6~7世紀以降の高句麗・百済・新羅の都城は、地方行政とは異なる独自行政がしかれていた。そして、日本でも都城独自の行政である「京」制がしかれていた。『続日本後紀』承和10年(843)正月庚辰条には「京職畿内七道諸国庚午年籍」とあり、庚午年籍は天智9年(670)に作成され、京職は「京」を管理する官司であることから、天智朝の都である近江京において京域という区画で住民を管理していた可能性が想定される。天智朝では、百済滅亡により亡命してきた百済貴族の知識をもとに政治・官制改革が行われた。このことから、日本の都城行政システムは朝鮮半島から、もたらされたと考えられる。また、5世紀の北魏において都城独自の行政区画があったこと、そして貴族から民衆までが集住する都市空間が6世紀ごろに朝鮮半島で成立したこと、それとほぼ同時期に朝鮮半島都城では地方とは異なる独自の行政がしかれたことを踏まえると、その情報が日本に伝わり「京」制が確立したことが想定できる。したがって、朝鮮半島の都城行政が日本の都城行政の確立に大きな影響を与えたのである。
今後の見通し
次の段階としては、朝鮮半島の都城は隋唐以前の中国都城の影響を受けて形成されたものであることから、中国の南北朝の都城も射程にいれて研究を進めていく。
とくに、北魏の建国者・太祖拓跋珪はその建国当初、族長の部民に対する支配権を国家へ移転させるために、拓跋部に随従する諸部族に対し、皇城周辺への定住を命じた。こうして都・平城周辺に集住した諸民族は、郡県制に組み込まれることなく、それとは異質の8つの特別行政区に編成された(川本芳昭「四・五世紀の中国と朝鮮・日本」『魏晋南北朝時代の民族問題』汲古書院、1998年、初出1992年)。したがって、北魏において、都城のみの特別行政区画が形成されていたことがわかる。また、北魏では、それまでの中国の都城にはなかった貴族から百姓までが居住する外郭城が出現した。この都城形態と支配構造の大転換は、高句麗・百済・新羅の都城行政の成立にどのような影響をもたらしたのかを考察する。その、考察結果を踏まえて、日本の都城は隋唐以前のどのような中国都城の影響も受け成立したのかを明らかにしていく。
2020年5月
現職:日本学術振興会 特別研究員PD(青山学院大学)