成果報告
2018年度
集団的記憶を構築する公共空間としての劇場――シェイクスピアの後期ロマンスの社会的役割について――
- 同志社大学文学部 助教
- 塚田 雄一
研究の背景・目的
カズオ・イシグロがノーベル文学賞を受賞した際に彼の作品が繰り返し扱ってきた「個人の記憶」や「共同体の記憶」というテーマが改めて世界の読者たちの注目を集めたが、記憶の形成・修正という問題はイシグロ作品特有のものでも現代特有のものでもない。本研究は、ステュアート朝期のイングランドにおけるテューダー朝期についての集団的記憶の形成・修正にシェイクスピア劇が密接な繋がりをもっていたこと、特にシェイクスピア後期作品が国家の過去をめぐる集団的記憶の構築の場として機能していたことを提示する初期近代イギリス演劇・文化研究である。
本研究は、ロマンスと呼ばれる一連のシェイクスピア後期作品群と、当時広く流通していたテューダー朝期を表象する言説の関係を考察し、シェイクスピア後期作品群が果たしていた社会的役割について新たな見解を提示する。多くの劇作家がステュアート朝期においてもテューダー朝期の政治や文化に言及し続けていたことは過去に指摘されているが、シェイクスピア劇については、一部の作品を除いて、それらの言説との繋がりが十分に検討されていなかった。本研究は、テューダー朝期を表象する数多くの言説に共通する宗教的かつ政治的な言語表現を分析した上で、シェイクスピア後期のロマンスにそれらが効果的に導入されていることを指摘し、シェイクスピア劇がテューダー朝イングランドについての集団的記憶の形成に参画していたことを示す。そして、人々のもつ多種多様な記憶がぶつかり合う記憶の交通の場としてシェイクスピア後期作品群を再考することを通じて新たなシェイクスピア後期作品論の構築を試みる。
研究の概要・成果
本研究は、第一部「演劇におけるテューダー朝期の表象」、第二部「宗教的記憶」、第三部「政治的記憶」、第四部「シェイクスピアの後期作品群とテューダー朝イングランドの記憶」の四部構成である。
第一部では、テューダー朝期を表象した言説を幅広く収集して、その特徴的な言語表現を分析した。そして、ステュアート朝期の詩や宗教関連書に表れたテューダー朝期のプロテスタンティズムと軍事主義に対する人々の複雑な感情を分析した David NorbrookやMichelle O’Callaghanらの先行研究に示された知見を参照しながら、ステュアート朝期の演劇におけるテューダー朝期の表象とその政治性を総論的に考察して、本研究の序論とした。
第二部では、第一部の議論をふまえ、シェイクスピアの『ペリクリーズ』(Pericles)、『冬物語』(The Winter’s Tale)、『テンペスト』(The Tempest)を主に読み解いた。特に、これらの劇作品に登場するヒロインの表象を、第一部で調査したテューダー朝期を表象した言説に頻出する宗教的な女性表象と関連づけて分析し、これらのロマンスが初演当時、それらの言説と同種のきわめて時事的かつ多義的な宗教性および政治性を帯びていたことを指摘した。
第三部では、シェイクスピアとジョン・フレッチャーの共作『ヘンリー八世』(Henry VIII)と『二人の貴公子』(The Two Noble Kinsmen)を主に分析した。はじめにフレッチャーの単独執筆作である『ヴァレンティニアン』(Valentinian)や『ボンデュカ』(Bonduca)が、第一部で調査したテューダー朝期の軍事主義をめぐる言説と複雑な繋がりをもっていたことを指摘した上で、シェイクスピアとフレッチャーの共作もまたテューダー朝期の軍事主義への評価をめぐって揺れ動いていた当時の人々のさまざまな想いを鋭く捉えていた可能性を提示した。
第四部では、本研究のまとめを行った。シェイクスピア後期作品群がステュアート朝社会においてどのような政治的・文化的な意義をもっていたかを考察して、本研究の結論とした。
今後の展望
本研究では初期近代イングランドに焦点を当てたが、今後は時代や地域を限定せず、分析対象を拡げて、劇場と集団的記憶の関係について多角的に考察していきたい。
2020年5月
現職:同志社大学文学部 准教授