サントリー文化財団

menu

サントリー文化財団トップ > 研究助成 > これまでの助成先 > 「反省」と「偶然」の問題系における日露近代文学・思想の比較

研究助成

成果報告

若手研究者のためのチャレンジ研究助成

2018年度

「反省」と「偶然」の問題系における日露近代文学・思想の比較

東京大学大学院人文社会系研究科 助教
高橋 知之

 本研究は、「反省」や「偶然」という主題系において、日露近代の文学・思想を比較する試みである。「反省」とは、19世紀半ばのロシアで「自己意識の病」をめぐって提起された問題で、「偶然」とは、1930年代の日本で一つの争点となった問題である。「反省」と「偶然」は本来、それぞれを中心概念とする主題系として別個に立てうるものだが、本研究の眼目は、両者の交わるところに着目する点にこそある。私の専門領域であるロシア文学の観点から見るならば、それによって、従来結ばれることのなかった作家たち・思想家たちの隠れた連関を浮き彫りにしうると考える。また、日露比較文学の観点から見るならば、この問題圏のもと、直接的な影響関係の有無を問わずにテクストを比較することで、新たな読みの可能性をひらきうると考えている。
 たとえば、「偶然」という主題は従来のロシア文学研究においてはほとんど重視されてこなかったが、実際には、プーシキンやレールモントフ、ドストエフスキー、トルストイらの作品において、決闘や賭博など、偶然的事象と関わる場面がたびたび描かれている。「偶然」とは思いがけない事象に出会うことであり、個人の自意識の外にある何ものかとの遭遇である。「反省」がもたらす「倦怠」「退屈」「停滞」といった閉塞状況に風穴をあけるものとして、「偶然」という契機がロシア文学に潜在しているのではないか。日常にひそむ不確実性・偶然性に「反省」を超える豊かさを見出していくような希求が潜在しているのではないか。私は、こうした仮説的問いを前提に、19世紀ロシア文学史を読み直していくことを試みている。そのための有力な参照先となるのが、1930年代の日本である。昭和十年前後の日本では、文芸批評と哲学の双方で「偶然」の問題が争点となり、九鬼周造や中河与一や横光利一らが思索を深めていた。
 研究の具体的な主題は二つある。
 第一に、ロシアの批評家アポロン・グリゴーリエフと日本の批評家小林秀雄の比較研究である。両者はいずれも、それぞれの文学史において、「批評」を自立したジャンルへと高めたと評される批評家である。この研究において、私は、グリゴーリエフの唱えた「有機的批評」と小林の唱えた「創造的批評」との親縁性を指摘した。グリゴーリエフは、自叙的な小説を書くことから出発しつつ、「反省」の「深淵」から脱するために、芸術との対話的関係を介して根源的な「生」へと肉薄する、という方法に可能性を見出していった。小林もまた、自己意識の空虚を描いた私小説から出発しつつ、自己と芸術の反射的関係を介して自己の地盤=「宿命」へと肉薄する、という方法に活路をひらき、批評家へと転身していった。両者の批評はいずれも「実践的」な性格を強く有している。すなわち、作品の理論的・分析的認識よりも「批評する」という営為それ自体が重視されるのである。また、その批評の核にあるのは「芸術との偶然的邂逅」という契機であり、そこに反省の空虚からの跳躍台を見出そうとする希求である。この研究の成果は、2019年7月、ボストン大学で開催された国際ドストエフスキー学会にて報告した。
 第二に、横光利一を主要な対象とする研究である。横光利一の長篇小説を取り上げ、彼がドストエフスキーの作品にいかに応答したのか、という観点から分析を行った。論議を呼んだ評論「純粋小説論」(1935)において、横光は、「偶然」という契機を提起するに際しドストエフスキーの作品を参照している。横光のドストエフスキー論は、内容よりも形式に焦点を合わせており、「シェストフ的不安」のもとにドストエフスキーを受容した同時代の作家たちに比せば、きわめて特異といってよい。そうした姿勢は評論「悪霊について」(1933)にも窺われ、『悪霊』がいかに書かれているかという点に彼の主眼は置かれている。純粋小説論の実践としてあった一連の長篇小説(『盛装』『紋章』『天使』など)における横光の形式的な実験は、翻ってドストエフスキーの読解にも新たな可能性をひらくものとなりうる。私は横光が「偶然」をいかに仮構しようとしたのかを明らかにするとともに、それによって得た知見をロシア近代文学に応用することで、新たな読みの可能性を探っていきたいと考えている。
 本研究はまだ途上にあるが、ロシア近代における「反省」の主題系と、日本近代における「偶然」の主題系とを、突き合わせ、照らし合わせることで、日露比較文学研究に新たな可能性を提起していきたいと考えている。

 

2020年8月

現職:千葉大学文学部 助教

サントリー文化財団