成果報告
2018年度
初期近代イングランドにおける辞典・百科事典の編纂と知識の編成
- 東京大学大学院学際情報学府 博士課程
- 加藤 聡
研究の動機
印刷術の登場や古典古代の著作の翻訳、新世界の発見といった世界観が変化するルネサンス期において、扱うことのできる情報が急増した。18世紀のフランスの『百科全書』に影響を与えたイングランドの辞典・百科事典の存在は、そうした「情報過多」の時代をとおして蓄積されたテクスト編纂術の成果である。つまり、辞典・百科事典は単なる字引ということ以上に、文化的に構築されたテクストである。
研究の目的
本研究の目的は、文化史としてほとんど未着手な状態である英語辞典・百科事典の全体像を把握するために、初期近代の学者たちがそのようなリファレンス書をどのように捉え、どういった編纂を試みていたのかを浮かび上がらせることにある。そうして辞典・百科事典を思想的・文化的な集成と捉えることで、新たなイングランド文化史を描き出すことを試みた。
研究で得られた知見
18世紀前半に編纂されたイングランドの百科事典は、いずれも「技芸と学問の辞典」という副題が付く。つまり初期近代の百科事典は辞典から派生したものであるということが明示されていた。そこで英語辞典の編纂史がいかなるものであったのかを調査することから研究を始めることが必要だった。16世紀のイングランドにおいて、英語はロンドンで使用されていた地方語であったが、印刷術や商業の発展により次第にラテン語などの諸外国語から借用した語彙が急増していく。その結果、それらの言葉を理解するための語彙集が求められ、それが教科書に付属するという新たなテクスト編纂の方向性を生み出していった。そこから次第に辞典として独立していく動きを捉えることができた。
そうした辞典が収録する語彙の種類を「リベラル・サイエンス」(今日でいうリベラル・アーツ、自由学芸)に限定することで、学術的な用語にも対応できるように編纂の方向性が変化していく。では、そうした広大な語彙をどのように辞典に収めたのか。多くの編者は古典古代のカノン、さらに同時代の著名な作家たちのテクストから「抜粋」することで対応した。いくつかの項目には、準拠としたテクストや著作名が明記され、使用者は容易に原典に当たることができた。こうして辞典はリファレンスとしての機能を果たすようになる。この編纂方法の着想は、当時の教育現場で一般的であった「コモンプレイス」と呼ばれるノート作りにあることが浮かび上がった。語義を定義するさいに偉大な人物に準拠することが、辞典の権威を担保することに繋がったというわけである。
上述した辞典編纂を背景に、百科事典の編纂が開始される。大型で出版費用がかさむ書物については、事前に『趣意書』を印刷し、それを「見本」として流通させていた。それは予約購読制を採用するためであり、読者にとっても事前に内容を確認できるという安心感を生み出した。また、そうした百科事典が準拠としたテクスト群はイングランドのものだけでなく、フランスやドイツといった大陸のものも参照していた事実が浮かび上がり、ヨーロッパ全体の知の統合としての百科事典という姿が浮かび上がった。
そして、最後にフランスの『百科全書』に影響を与えたとされるトマス・ダイチの辞典について、仏訳版も含めて検討を行った。この辞典については、未だに十分な分析がなされてこなかったため、基本的な情報を整理しつつ出版遍歴を追うことにした。そのさい、仏訳の編者はイングランド辞典史の流れを捨象し、収録語にも大幅な変更を加えることによって、フランスでの偉大な辞典に連なるものとして再編集していたことが明らかになった。
ここまでの研究を博士論文として一度はまとめたものの、現在さらなる改稿を続けている状態である。また、いくつかの調査結果は査読中あるいは諸事情により未発表である。
今後の課題
本研究により、イングランドの辞典や百科事典の編纂には諸外国の専門事典の存在が不可欠であったことが浮かび上がった。今回、そうした事典の存在については言及するに留めたため、それらの事典がもつ歴史的な意味や転換点、編纂方法については十分な議論を展開することができなかった。また本研究は辞典・百科事典を対象にしつつも、必要に応じて同時代の文学や百科全書的な書物についても言及をしたが、それらについても今後は詳細な分析が求められる。
2020年5月
現職:東京大学大学院情報学環・学際情報学府 特任研究員