成果報告
2018年度
文学の可能性――夏目漱石とウィリアム・ジェイムズの比較研究から見えるもの
- 東京大学大学院総合文化研究科 博士後期課程
- 岩下 弘史
研究の目的と方法
本研究は漱石の文学観を確認したうえで、その知見を元に、文学が社会にとってどのような可能性を持ちうるのかについて考察することを目的としている。
その漱石の文学観を理解するためには彼がもっていた基本的な哲学観を知る必要がある。まず、漱石にとって文学が意義を持つのは、あくまで「開化」に影響をもたらす限りにおいてであった。「開化」とは何か。それは人間が意志的な努力によって世界や人間をよい方向に変えていくことを意味する。では世界や人間はどうすれば「よい方向」に向かうのか。それを知るためには「世界」や、「人生」についての哲学的理解を踏まえねばならない。だから、漱石の文学観を知るためには、漱石の哲学観を知るべきだということになる。
その漱石の哲学観に大きな影響を与えたのは米国の哲学者ウィリアム・ジェイムズである。漱石がジェイムズを丁寧に読みこんだことはよく知られているが、そのことの意義は十分には明らかになっていない。そこで本研究は、まずジェイムズ思想の十全な理解に努め、そのうえでそれが漱石の哲学観とどのような関係をもつのかを考察し、その哲学観についての新たな解釈を示すことを目指した。
研究成果・研究によって得られた知見
漱石によれば誰のものでもない「意識が連続」することこそが世界の基本的な在り方である。そのなかから「私」や「貴方」という人格的意識が生まれ、「物」と対立するようになる。常識的にいえば、「物」こそが基本的な存在物だと言いたくなるが、漱石によれば、「物」は「捏造」されたものに過ぎない。彼にとって「意識の連続」こそが根本に存在する。
この基礎的な意識の連続を、人々はそれぞれが自己の関心に応じて都合のよいものへと変化させていく。それによって個々人に固有な世界が発展していくのだという。
ここで注意しなければいけないのは、この見解が、単に個々人の関心はお互いに異なると主張しているわけではないということである。この世界において確かに存在するものは意識の連続だという前提があるため、個々人がそれぞれの関心に応じて意識の連続を変化させるというのは、人々が次第にそれぞれに異なる世界を生んでいくということになるのである。つまり、次第にわれわれは「ばらばら」な世界に住むようになってしまう。これこそが、漱石の基本的な世界観から帰結する問題であり、晩年の漱石は実際にこの問題に悩まされていた。
こうした状況において必要とされるのが、漱石の代名詞とも言える「則天去私」的態度である。この「則天去私」という語は複雑な歴史を持っている。まず漱石の死後、主にその弟子たちによってこれは漱石が晩年に達した悟りの境地を表す語として解釈された。だが戦後になると、晩年に漱石が「悟りの境地」にいたというのは見当違いであるとする批判が多くなされるようになった。その結果として近年の研究ではこの「則天去私」は軽視されている。しかし、漱石の弟子たちのように、「悟り」と結びつけることなく、この思想の重要性を論じることは可能である。これは実のところ漱石の基本的な哲学ともジェイムズの思想とも深く関わっている。また、この「則天去私」的な境地を達成する文学こそを漱石が高く評価していることを忘れてはならない。
すでに述べたように漱石にとってこの世界の基礎的な存在者は誰のものでもない「意識の連続」であった。「天に則り私を去る」ことを意味するこの「則天去私」という思想は、その基礎的な「意識の連続」に立ち還る事を意味している。そして、そのことによって、今「ばらばら」な状態にあるように思われる個々人が「リアル」な意味でつながる可能性を考えることができるのである。本研究はこうした見解が、ジェイムズの『多元的宇宙』の思想と軌を一にすることを、蔵書への書き込みの検討と合わせて明らかにした。
なお、漱石が文学において希求することも上記の見解と関わっている。人々の意識を誰のものでもないあの意識の連続に立ち還らせてくれる文学、忘我の状態をもたらしわれわれが実は一つなのだと思い起こさせてくれる文学、いわゆる「ばらばら」問題を解決してくれる文学を漱石は高く評価する。
今後の課題と展望
「文学の可能性」を考えるにあたり、さらなる探究が必要であることは言うまでもない。漱石は忘我の状態をもたらす文学を評価し、人と人のつながりを取り戻させてくれる文学を評価するが、それはより具体的にどういった作品なのか、また彼自身の作品においてそれがどのように反映されているのか。これらについてもさらなる考察が必要だろう。
2020年5月
現職:法政大学市ヶ谷リベラルアーツセンター 兼任講師