成果報告
2018年度
冷戦体制崩壊から911同時多発テロに至るまでの合衆国の文学/文化の歴史化
- 一橋大学大学院言語社会研究科 博士後期課程
- 青木 耕平
研究の動機・意義・目的
アメリカ本国または日本のアメリカ文学研究において、「冷戦期研究」は多くの蓄積を有している。「ポスト911小説研究」はすでに研究の一領野として確立されている。それらに比して、冷戦体制崩壊から911勃発に挟まれた1990年代は、大きな研究の視座が未だ与えられていない。たとえばハーバード大学が編纂した2009年刊行の『新編アメリカ文学史』(A New Literary History of America)では、アメリカ建国以降の文学史が時系列ごとで並べられているが、そのなかで最もページ数が薄いのが1990年代である。分量で言えば、前後して挟む1980年代と2000年代の5分の1程度しかない。まるで、アメリカ文学にとって、1990年代に特筆すべき作品や事柄は存在しなかったかのようだ。
しかし、1990年代アメリカ文学は、決して不作だったわけではない。多文化主義が隆盛し、多くの非白人作家が頭角を現し、クィアスタディーズが開始され、若い作家たちはポストモダン文学を乗り越えようと新たな文学潮流を起こし、すでに揺るがぬ地位を確立していた大御所達が歴史に向かう大作を次々に発表した。だがしかし、それではなぜ、これほどまでに1990年代は軽視されているのか?
2020年の現在、我々が直面しているのは、EUの苦境、ロシアの軍事的台頭、資本主義世界におけるアジア諸国の勢力図の変化、貧富の差の増大、ナショナリズムの勃興、中東問題の激化、保護主義の復古である。そしてこれらは往々にしてグローバリゼーションの帰結/バックラッシュとして理解され、そのアイコンとしてアメリカ合衆国大統領ドナルド・トランプがいる。そしてトランプは、2016年大統領選の最中に、1990年代米国クリントン政権を攻撃した、「我々の苦境をもたらしたのは、1990年代のグローバリゼーションだ」と。いったいなぜアメリカ国民は、そして西側資本主義国家に生きる我々は、彼のこの告発に一定のリアリティを感じ取ってしまったのだろうか。我々の現在を深く規定することとなった1990年代を知るためにこそ、1990年代のテクストは読み解かれなければならない。
アメリカでは、多文化主義、ジェンダーやポストモダン作品分析等の枠組みで書かれた1990年代文学論は2020年時点で4冊存在し、1990年代作品論集も代表的なものが数冊編まれており、どれも大変優れているが、階級の視座と、「現在に連なる90年代」というマクロな視点が存在しない。様々な学問分野で1990年代の再検討がなされている中、文学/文化もまた現在へと続く歴史の中で捉え直すことが求められている。今までの文学研究の権威が軽視してきた1990年代の合衆国文学を再読し、文学史に加筆修正を加えることが、本研究の動機であり意義であり目的である。
研究成果や研究で得られた知見
本助成金をもとに、2019年夏に米国に渡り、プリンストン大学にてトニ・モリスン・ペーパーズ、インディアナポリス大学にてカート・ヴォネガット・マニュスクリプツ、テキサス大学にてコーマック・マッカーシー・ペーパーズを訪れアーカイブ調査を行った。そこで主に精査したのは、出版刊行前のファースト・ドラフトとその構想メモである。モリスン『ビラヴド三部作』も、ヴォネガット『タイムクエイク』も、マッカーシー『国境三部作』も全て初期構想は1980年代末ないし90年代初頭にすでに存在していたが、その刊行/完結は90年代後半であった。1990年代の時代の移り変わりがいかに小説テクストに影響を与え作家はそれを新たに取り入れたのか、それを論証するために必要となる貴重な資料を得ることができた。モリスンに関しては「『ビラヴド』と、その時代」としてすでに『ユリイカ』2019年10月号上で成果を公開している。ヴォネガットとマッカーシーについては現在執筆中の博士論文のなかで成果を公開する。
今後の課題・見通し
現在、研究成果を博士論文としてまとめている。博士号は2021年取得予定。主に扱う作家は上記したヴォネガット、マッカーシー、モリスンにくわえ、ジョナサン・フランゼン、ブレット・イーストン・エリス、デヴィッド・リンチ、アーシュラ・K・ル=グウィン。
本助成の中間報告会において、選考委員より「テキストの選定が恣意的なのではないか」そして「1990年代という時代の一側面に過ぎないのではないか」と指摘があがった。本研究はそもそも既存の1990年代米国文学論の補完という側面を有するのであるが、確かにこの指摘は正しく、報告者自身これが本研究の限界であると認識している。この指摘と限界に対して、博士号取得後に、扱う作家、作品、ジャンルの拡張でこたえる予定でいる。1990年代を通して、アジア系アメリカ文学、チカーノ文学、ネイティヴアメリカンの文学の作家たちの多くがデビューし、ミステリー小説はTVと、SF小説はインターネット文化とハイブリッドし変容していった。それらを貪欲に取り込み論じ拡張し常にアップデートし続け、1990年代合衆国文学研究の日本における第一人者となることが、最終的な報告者の課題である。
2020年5月