成果報告
2018年度
「民主主義の砦」の逆説――欧州統合の南方拡大とEU危機の起源、1974-86年
- 慶應義塾大学大学院法学研究科 助教
- 伊藤 頌文
本研究の内容・目的・意義
本研究は、1970年代半ばから80年代における欧州共同体(EC)の南方拡大を巡る政治過程に着目し、この問題が表出した背景やその経緯を分析するとともに、当時の西欧世界を取り巻く国際環境との相互作用を、実証的に明らかにするものである。主に安全保障面の問題を軸として、ECの南方拡大における関係各国や国際機関の政治的思惑を浮かび上がらせることで、その歴史的意義を再検討するとともに、より一般的・普遍的な問題にも接続し得る論点の考察も試みる。
欧州統合史において、ECの南方拡大は冷戦後の欧州連合(EU)の拡大プロセスにおける先例として位置付けられるが、実証的な歴史研究は緒に就いたばかりである。また、本研究が分析対象とするギリシャ・スペイン・ポルトガルの南欧三カ国を巡っては、権威主義から民主主義への体制移行という象徴的な事象が、その後の欧州統合への参画に向かって単線的に論じられる傾向が強かった。その背景として、西欧世界における人権や民主主義といった普遍的な価値規範の重要性もしばしば指摘される。
元来ECは経済統合体であり、しかも南欧三カ国は経済的に著しく立ち遅れていた。それにもかかわらず、民主主義の価値を理想視する政治的イニシアチブによって南方拡大が推進されたという逆説を含む事象について、先行研究の論究は必ずしも十分ではない。また、当時の西側同盟が置かれた状況を考えると、地中海の安定が重要な課題となったほか、デタント崩壊と新冷戦の開始、ユーロコミュニズムの台頭など、政治・安全保障面での懸案も噴出していた。このような状況下で、ECの南方拡大は地中海における西欧国際秩序の構築と安定という課題とも連結したのである。その旗印として掲げられたのが、西欧世界が奉じる普遍的価値としての民主主義という規範であり、ECは西欧諸国と南欧三カ国にとって「民主主義の砦」とも呼び得る象徴的な存在とみなされた。
当該期のECの経験は冷戦後に進展するEUの拡大に先鞭を付けた一方で、必ずしも新規加盟国で民主主義の定着が進んだとはいえず、近年では民主主義の根幹が揺らぐ事態も生じるようになっている。こうした現状に鑑みれば、ECの南方拡大は逆説的に、欧州統合が民主主義の未成熟な加盟国を内包するジレンマを抱える端緒となり、目下のEU危機の歴史的一起源にもなったと考えられる。そして、この問題は先進諸国が奉じてきた普遍的な価値観や規範がもつ強い政治性をも浮き彫りにするだろう。
研究成果・得られた知見
本研究の助成期間においては、関連する二次文献および公刊史料集、同時代的資料の渉猟に努めつつ、1970年代中盤にギリシャ・スペイン・ポルトガルで権威主義体制が相次いで動揺・崩壊し、それに伴って民政移管が進展する過程におけるEC側の態度と対応を検討した。ここで得られた知見として、南欧三カ国の権威主義体制が崩壊する前段階において、民主主義や人権という要素はEC内の政治的言説において度々論じられていたものの、実質的にはほとんど効果をもっていなかった、という点が挙げられる。当時の西欧諸国にとって一義的に重要だったのは東西冷戦への対応であり、そこに介在する西側同盟の一部をなす南欧諸国の権威主義体制は、共産主義勢力への対抗という観点から無碍にできない厄介な存在であった。そのため、民主主義や人権が抑圧されていたとしても、ECとしてはその暗部に目を瞑らざるを得なかったのである。その反動として、南欧三カ国の民主化はEC側に普遍的な価値規範の重要性を再認識させることになったといえる。
本研究の考察によって、南欧三カ国のEC加盟に至る過程を論じるための前提条件と政治的構図を析出できたと考える。また、本研究はこれに先立つ時期における地中海地域の秩序変動とも連続するものであるし、目下のEUの動揺を歴史的視座から考察する補助線にもなり得る。本研究の直接的な射程を超えるものではあるが、その前後の時代や現状分析を含む関連研究においても、ここで得られた知見を補完的に用いた。これらの相互作用を通して、本研究の問題意識をより精緻化することにも繋がった。
今後の見通し
本研究の中核となる部分に関わる先行研究の整理、史資料の読み込みを継続的におこない、今後はその成果を査読誌に投稿、掲載することを目標とする。また、春季に予定していた海外での史料調査は今般の新型コロナウイルス問題の影響で中止せざるを得なかったが、収集済みの史料の分析やオンラインで入手可能な資料の収集を引き続き実施しつつ、分析枠組みやインプリケーションについても議論を深めていきたいと考えている。
2020年5月 ※現職:防衛省防衛研究所戦史研究センター国際紛争史研究室 研究員