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研究助成

成果報告

若手研究者のためのチャレンジ研究助成

2017年度

日本労働基準監督行政史の研究―「制度」と「専門性」の形成過程

首都大学東京大学院社会科学研究科 博士後期課程
前田 貴洋

研究の動機・目的・意義
 日本人の労働時間は一貫して減少傾向にある。1988年に改正労働基準法が施行され、法定労働時間が週40時間に引き下げられたことのインパクトは特に大きなものであった。他方で、一般的には日本人の働きすぎが指摘されることも多い。さらに、近年においては、過労死・過労自殺が社会的に問題となっており、比較的労働時間の管理が適切に行われていると考えられてきた大企業においても、問題が続出していることは記憶に新しい。それでは、なぜ、国際的にみて日本に特有とも思われる過労死・過労自殺という労働問題が、今なお解決を見ないのであろうか。
 本研究は、日本に特有の長時間労働等の社会問題が解決しない原因について考察することを目的とする。その際本研究においては、従来の先行研究が分析の対象とはしてこなかった、労働基準監督行政組織を分析の対象とする。言うまでもなく労働基準監督行政組織は、労働関係法令の履行確保を掌り、労働問題の解決に重要な役割を果たす。したがって、諸外国においては、行政学・政治学だけでなく、関連する諸学問分野においても重要な研究対象とみなされてきた。翻って日本においては、労働基準監督行政組織を対象とした研究は極めて少ない。労働基準監督に関する規制執行を担う行政組織がいかなる特徴を持ち、その特徴をどのように形成してきたのか。これを明らかにすることで、日本特有の労働問題が抱える構造的問題の一端を、従来解明されていない行政組織の観点から明らかにするのである。
 本研究が持つこのような目的は、以下2つの点において意義を持つ。第一に、社会的・実践的意義である。本研究は、日本特有の労働問題についてこれまで十分に検討されてこなかった、行政組織の観点から分析している。そのため、本研究から得られた知見は、実態や歴史的経緯を十分に踏まえないままになされてきた労働基準監督行政組織の運用に対して、再検討の余地を与えうる。第二に、学術的な意義である。諸外国の先行研究において従来試みられてきた労働基準監督行政組織の国際比較研究は、各国組織の違いを明らかにすることにある程度成功している。だが、こうした研究では各国の違いは明らかにできても、なぜそのような違いが生じたのかは、必ずしも明らかにされていない。本研究は、日本の労働基準監督行政組織というこれまで研究対象とはされてこなかった行政組織を分析し、日本の行政学のフロンティアを拡大したのみならず、歴史的な分析を行うことで、なぜ日本の労働基準監督行政組織が現在の組織的特徴を持つに至ったのかを丹念に明らかにしたのである。

研究成果・得られた知見
 本研究の結果として得られた知見は以下の通りである。第一に、戦後労働基準監督行政組織の設置過程における、戦前工場監督行政がもたらした影響の強さである。つまり、戦前工場監督官制度は、それ以前の工場警察行政の能力不足から当該行政分野の高度化専門化を目指すものであった。だが、実際には専門官たる工場監督官の確保は困難を極めた。ゆえに、府県警察による代替的な執行が継続し、さらに現場での執行活動は府県の管轄であったために戦前は実効性を欠く制度であった。第二に、こうした戦前の経緯を受けた戦後の制度設計過程では、制度の中央直轄化、特別司法警察権付与による権限強化が重大な論点となった。第三に、通常の行政組織にあまり付与されない強力な権限を得た労働基準監督行政組織は、当該権限を組織の中核的な技術として人材育成や規制執行方針の作成を行い、組織の制度化に邁進したのである。
 このように、戦前に比べて相対的に強力な権限を獲得することになった日本の労働基準監督行政組織は、特別司法警察権限という強い権限を持つがゆえに、全国規模での規制執行水準を「斉一」に平準化することに躍起になっていた。だが、新たに浮上した労災という組織課題にはこの権限で対応することが困難であった。他方で、この権限を捨て新たな組織課題に対応するということは、これまで培ってきた人材と組織を否定することになりかねない。ゆえに、日本の労働基準監督行政組織は、臨検を行い、その過程で発見した法違反に対して是正勧告を行い、場合によっては特別司法警察権限を行使するという中核技術を維持したまま、時代によって移り変わる労働問題に対処している。そのため、必ずしも労働基準監督行政組織による規制執行活動が現実の労働問題に対して効果的に対処しえていない可能性が示唆されたのである。
 以上の研究内容は、博士学位論文として取りまとめたうえで、首都大学東京に提出されたものである。

今後の課題・見通し
 本研究では、労働基準監督行政組織を包括的に扱った基礎的な研究が欠落していることから、当該組織の発展過程を歴史的に分析した。他方で、直近の労働基準監督行政組織の実態については十分に考察することができなかった。ゆえに、現在の労働基準監督行政組織の実態を分析するための一助として、労働基準監督行政組織における多機関連携の実態につき調査・分析を行った(「第5章 労働基準監督―「情報連携」から「行動連携」へ―」伊藤正次編『多機関連携の行政学』有斐閣、2019年として公刊)。今後もこうした現状の分析を継続していきたい。
 また、データ等の制約から労働基準監督官による臨検監督(labor inspection)が持つ各種労働問題に対する予防効果を計量的に実証することは叶わなかった。諸外国においては、臨検監督の実証研究が数多く行われており、国際的な労働基準監督行政組織の研究との比較可能性の観点からも、今後はこうした実証研究にも取り組んでいく予定である。

 

2019年5月

現職:首都大学東京法学部 助教

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