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研究助成

成果報告

若手研究者のためのチャレンジ研究助成

2017年度

古代東アジアにおける対外関係と地域支配の連関についての研究

早稲田大学高等学院 教諭
柿沼 亮介

研究の動機・意義
 私は日本古代の対外関係や古代東アジア交流史をテーマに研究を進める中で、特に、7~8世紀の日本と新羅の関係史や、古代の外交使節に関心を持ち、先鋭化し易い君主間外交を補完する役割を果たした上級貴族層や仏教界、商人などによる多元的な交流のあり方について検討してきた。さらに、鞠智城の設置目的や渤海使に対する沿岸諸国における対応について考える中で、律令国家の時代における対外関係が、ヤマト政権によって外交権が統一される以前からの地域ごとの対外交流の影響を残しており、ひいては地域支配とも連関するという仮説を提起するに至った。
 このことが明らかになれば、いままで学界において別々の分野として研究が蓄積されてきた対外関係史と地域史の研究を統合し、東アジア全体を視野に入れながら各地域についての豊かな歴史像を描くことが可能になると考えられる。

目的
 外交使節の入境経路や、環東シナ海・環日本海地域における地域勢力の対外交流のあり方、渡来系氏族の移配などに注目し、古代東アジアにおける地域ごとの対外交流が統一国家形成以後にどのような形で残存し、それが国家の外交方針との間でどのように位置づけられていたか、つまり対外関係と地域支配がどのように連関していたかということを明らかにする。

内容
 本研究では、以下のような視点から対外関係と地域支配の連関について検討した。

1)外交使節の入境経路に関する研究
 外交使節の入境経路には、その地域の事情や支配のあり方が関係していると考えられる。古代の外交使節の入境経路としては、筑紫ルートと日本海ルートの両方が用いられている。新羅使は主に筑紫ルートを、渤海使は主に日本海ルートを利用したが、8世紀後半に突如として日本側が渤海に対して北路(日本海ルート)禁止を通達し、筑紫ルートを利用することを要求する。この点について、藤原仲麻呂政権との関係から検討した。

2)遣唐使の航路と環東シナ海交流に関する研究
 7世紀末~8世紀前半にかけて、古代国家は南西諸島の種子島や屋久島、奄美などの「南島」に対して覓国使を派遣するなど、服属させるべくアプローチした。その後この地域は、遣唐使のルートともなる。南島の服属と遣唐使の航路との関係性について、環東シナ海交流を踏まえつつ検討した。

3)渡来人の移配に関する研究
 716年、駿河・甲斐・相摸・上総・下総・常陸・下野の高麗人1799人を武蔵国に移配し、高麗郡が建郡された。武蔵国高麗郡の建郡の背景には、渡来人(帰化人)を集住させることによって、朝鮮半島において滅亡した国家を日本国内において疑似的に存続させ、彼等を支配することで帝国としての体裁を保つという古代国家の意図を読み取ることができる。同様に日本国内で渡来人を移配して設置された武蔵国新羅郡や、摂津の百済郡などについて検討することで、渡来系氏族をめぐる地域支配と対外関係の連関について考究した。

研究成果
 白村江の戦い後、唐・新羅関係が悪化したことで高句麗の残存勢力から日本に使節が派遣され、また、存亡の危機に瀕した耽羅からは王や王子も来日した。それらがなくなると日本は南島を服属させ、南島が内国化すると、703年に高麗若光に王姓を賜与した。このように日本は、7世紀後半以降も小中華としての体裁を維持しようとした[拙稿 2017]。
 本研究では、その後の小中華意識のあり方と、地域支配の関係について検討した。
 713年に大祚栄が唐から渤海郡王に冊立され、高句麗の後裔と主張する渤海が「公認」されたことにより、日本は国内に高句麗の王権を疑似的に存続させる体裁をとることができなくなり、高麗王氏は存続しなかった。一方、難波のそばの百済郡に安置されていた百済王氏は、8世紀半ばまでに河内国交野に移住し、百済寺を創建するなどして拠点としていった。ここには、国内において存続させられた唯一の外国王権である百済王氏の拠点を整備する意図があったと考えられる。
 高句麗系の渡来系氏族については、高麗福信の一族が8世紀半ば以降に肖奈公→肖奈王→高麗朝臣→高倉朝臣と改姓を繰り返したことが知られるが、このことは藤原仲麻呂政権による親渤海政策の一環として理解すべきである。そのため、仲麻呂政権崩壊後に仲麻呂派の拠点でもあった北陸の外交上の機能を縮小させるべく、一時的に「北路」禁止の方針がとられたものと考えられる。

今後の課題
 本研究では、対外交流や渡来系氏族の拠点となった地域の支配のあり方について、7~8世紀における外交と内政を踏まえて検討し、支配のあり方の変化について一定の説明をつけることができた。しかし、南島の支配や外交使節の航路については、予備的な調査や基礎的な資料収集の段階である。今後は、今回の成果に環東シナ海交流という視点を加味しながら研究を進めていきたい。

 

2019年5月

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