成果報告
2017年度
『大阪時事新報』から見る「関西ジャーナリズム」史の再考
- 大阪芸術大学短期大学部メディア・芸術学科 教授
- 松尾 理也
①研究の進捗状況
本研究は、これまで『朝日』『毎日』という二大全国紙の視点から語られることが多かった関西の新聞史を、消えていった新聞の視点、いわば敗者の視点から捉え直すことを目的とした。具体的には、1908(明治38)年に創刊され、1942(昭和17)年に大阪の新聞統合の完成とともに廃刊となり、戦後一時期復刊されたもののまもなく消えていった大阪時事新報という「忘れられた新聞」を題材に、関西メディア史の裏側を検討した。
2016、17年度に計8回の研究会を開き、メディア史を中心に経済史、ジャーナリズム論など多角的な視点から関西メディア史のとらえ直しを試みた。主な報告者は山口功二・同志社大名誉教授、里見脩・大妻女子大教授、都倉武之・慶應義塾大学准教授、板谷敏彦(作家)、畑仲哲雄・龍谷大准教授、黒田勇・関西大教授である。また、「メディア政治史研究会」(代表・佐藤卓己京都大学大学院教授)など外部の研究プロジェクトとも連携し、隣接した研究テーマとの相互交流にも努めた。
②研究で得られた知見
昭和戦前期の新聞をめぐって、明治の自由民権期から大正デモクラシーの時期を経て曲がりなりにも日本に根付いたようにみえた自由主義的言論がなぜ全体主義的な方向へ転換したのかという疑問は、戦後70年以上経過した現在でも、大きな問いであり続けている。権力側の弾圧にメディアが屈し沈黙を強いられたという通説に対し、最近ではむしろメディアは積極的に当事者として全体主義を鼓吹し、進んで権力側に同調していったのだという異議申し立てが相次いでいる。
ただ、そうした再検討の対象はまだまだ『朝日』『毎日』などいわば当時の用語でいう一流紙に止まり、いわゆる「二流紙」に関するとらえ直しの作業は進んでいない。
このような問題意識からみると、大阪時事新報は極めて興味深い存在である。昭和戦前期の同紙は、軍部寄りであり、国民主義的であり、愛国・殉国精神を鼓吹する「日本主義」的新聞であった。日本主義化は、昭和6年に行われた大阪時事新報社の時事新報社からの経営切り離し、及び神戸新聞主導の新聞トラスト「三都合同」への参加を機に起きている。たまたま満州事変が発生した昭和6年に紙面転換が起きているため、混同されがちだが、実際には経営の変更が日本主義化の起点となっていた。つまり、戦前期の日本のメディア(新聞)に起きた「全体主義的な方向への転換」は、権力による弾圧でも、メディアによる権力へのすり寄りでもなく、経営的な動機から行われたのである。
いうまでもなく『時事新報』は福沢諭吉が発刊し、「独立不羈」を標榜して開明的かつ中道の編集路線が明治から大正初期にかけて高い支持を集めた名門紙である。ただ、その福沢精神を基底としたブルジョア的市民主義とでもいうべき紙面には、明治のころの国権主義も確かに含まれており、それを個別に昭和戦前期に取り出して日本主義に作り替える作業もまた、可能であった。
現実に、大正期の『大阪時事』をみてみると、むしろ『朝日』『毎日』よりも穏健で、啓蒙主義的な紙面を作っていたことがみてとれる。それは、大正期に「民衆的傾向」と呼ばれた荒々しい下からの世論の噴出に対応できず、結果的に昭和戦前期の日本主義化につながっていったのである。
③成果
以上について、2018年度日本マス・コミュニケーション学会春季研究大会で「昭和戦前期〝二流紙〟の日本主義化」として報告を行ったほか、現在学術論文を「マス・コミュニケーション研究」誌に投稿中である。さらに、研究の過程で浮上した「大阪系全国紙」というテーマを掘り下げるかたちで、関西におけるメディアと政治とのつながりを論考した論文「ポスト政論新聞・大阪系全国紙の迂回路─特ダネ主義と政治部記者(仮題)」を執筆、今秋刊行予定の佐藤卓己・河崎吉紀編『近代日本のメディア議員―「政治のメディア化」の歴史社会学』(創元社)の一章として掲載される見込みである。
現時点では、昭和戦前期から遡るかたちで、大正期まで『大阪時事新報』についての研究が進んでいる。今後さらに明治末期の創刊まで研究を進めた上、成果を単著として世に問いたいと考えている。
2018年8月