成果報告
2017年度
近代日本における建築「創作」の誕生-分離派建築会と芸術・思想の交点から
- 京都大学大学院工学研究科 准教授
- 田路 貴浩
本研究は、近代日本において建築「創作」という観念が誕生した経緯とその展開の解明を目的としている。建築で初めて「創作」を唱えたのは、1920年に結成された分離派建築会6名の建築家たち(山田守、石本喜久治、堀口捨己、森田慶一、瀧澤眞弓、矢田茂)である。日本の近代建築は西洋の様式模倣から始まったが、明治末から日本独自の様式「創造」が求められ、大正期に入ると建築の「創作」を主張して分離派建築会が登場する。当時すでに芸術分野では創作版画協会(1918)が設立され、思想分野では和辻哲郎が「創作の心理について」(1917)を著していた。分離派建築会こうした芸術・思想の動向を貪欲に吸収し、作家の芸術意欲による制作を主張するに至る。本研究では、こうした1920年代前後の建築家たちの動向について、芸術や思想との交流から学際的に調査する。
2017年度は、前年度から始めた連続シンポジウムの第3回目、第4回目を開催し、それらを目標として調査を行い、議論を重ねた。
○ 連続シンポジウム 第3回「メディアと建築家 ─ 博覧会と商業主義のただ中で」
2017年11月5日、東京大学本郷キャンパス工学部1号館
ゲスト:橋爪節也(大阪大学教授、美術史)、内田青蔵(神奈川大学、建築史)
分離派建築会は、これまで指摘されてきた自己の芸術意思からの純粋な創作を主張したが、大正期に発達する消費社会を背景としていることを見逃すことはできない。ドイツ、ウィーンでは19世紀末にアカデミズムの伝統に反発してゼツェッシオン(分離派)が起こったが、日本の建築界ではこれをセセッション式として受容していくことになる。とくに1914年の東京大正博覧会ではセセッション式のパヴィリオンが建ち並び、セセッションが一気に流行する。大阪ではセセッション式は商業美術として受け入れられ、セセッション風の店舗がつぎつぎに登場した。こうしたなか、1922年の平和記念東京博覧会では、発足直後の分離派メンバーがパヴィリオン設計の機会を得たのである。彼らは商業主義のただなかで最初の処女作を手がけることになった。
○ 連続シンポジウム 第4回「分離派建築会と建築における<田園的なもの>」
2018年6月16日(土)13:30~17:30、京都大学楽友会館
ゲスト鞍田崇(明治大学、哲学)
分離派建築会が発足された当時、社会にはデモクラシーの潮流が現れたり、ロシア革命に後押しされて社会主義思想が隆盛をみたりするなど、「大衆」や「民衆」を基盤とする種々の主義や主張が生まれた。社会や精神の「改造」が叫ばれ、人々の眼差しは新しい都会・都市と伝統的な田舎・地方の両者に向けられた。そうしたなか、分離派建築会のメンバーは新しい創作を標榜しつつも、堀口捨己「紫烟荘」、瀧澤眞弓「日本農民美術研究所」、蔵田周忠の一連の田園住宅など、民家(農家)に着想を得たと考えられる作品を残している。彼らは「田園的なもの」「地方的なもの」を建築制作のモティーフに据え、めまぐるしく変化する生活様式に対する応答を試みたのである。そこには農家風あるいは民家風の表層的な模倣を超え、新しい創作の立脚点を模索していた。その彼らの立場も様々で、堀口捨己は田園に生活の根拠を求め、蔵田周忠は土着性を翻案しようとし、瀧澤眞弓は無名の生作者としての民衆に眼差しを向けていた。しかしいずれも建築家の個性に代わる制作の根拠が田園に求められたのであった。
本研究の成果の公表として、分離派建築会100周年にあたる2020年に、展覧会の開催を企画しており、展覧会構成などの準備も並行して行った。また、論考集の出版企画も進めた。
2018年8月