成果報告
2017年度
国内統治の観点から見た近代中国外交のはじまり
- 東京大学大学院総合文化研究科 博士課程
- 早丸 一真
中国はいつから近代外交を始めたのだろうか。清にとって初めての条約となったネルチンスク条約(1689年)やアヘン戦争の後の南京条約(1842年)、それとも天津条約(1858年)・北京条約(1860年)によって外国公使の常駐が始まった時、あるいは北京の各国公使館との連絡・交渉を担う総理各国事務衙門(総理衙門)が設立された時(1861年)、それとも清が初めて常駐在外使節を派遣した1870年代後半であろうか。近代中国外交の起点を当時の政権の側に立ってはっきりと示すことは思いのほか容易ではない。
その一方で、外国人の目には中国は19世紀半ばに国際社会に参入したと映った。数多くの外国側の史料は19世紀後半の清が外交にどう対処しようとしたかを伝えている。同時代の外国人も、20世紀以降の中国人も、そして、中国外交史の研究者たちも19世紀半ばの中国に外交はあったと考えてきた。だが、当事者であった清の官僚もそれを外交と考えていたとは限らない。彼らの目から見れば、外国との関係は夷狄の相手をする業務―「夷務」―の一環であった。
事実、1860年代以降は条約によって、公式な文書の中で「夷」という呼称を用いることが禁じられていたにも関わらず、1860年代から70年代半ばまでの対外関係文書を編纂した同治朝『籌辦夷務始末』(夷狄取り扱い事務全記録)が完成したのは1880年である。条約において「夷」と呼ぶなということが定められたとしても、天朝の夷務の観念がただちに変わるはずもない。
また、実態の面から見ても、1860年代から70年代半ばまでの清には、外務省のような外政機構、外務大臣のような専任の外交政策の責任者、在外公館とそこに駐在する外交官、本国と出先の間を往来した外交文書のいずれも存在していなかった。当時の清の官僚から見れば、夷務は二国間の外交問題に対処する任務というよりも、むしろ国内で外国人が引き起こした問題をどうやって行政的に処理するかという業務であった。そのしくみを理解するためには、何よりもまず『籌辦夷務始末』、すなわち夷務の記録を紐解く必要があるだろう。
これまでの外交史研究では、『籌辦夷務始末』を外交文書として外国側の外交文書とつき合わせて研究が進められてきた。しかし、そのタイトルが示すようにこれは外交の記録ではなく夷務の記録であり、また、そこに収められた多くの文書の中で、当局者が自らの業務を外交と称しているわけではない。夷務を外交と読みかえるのではなく、夷務を夷務として究明する姿勢が求められるのではないか。前述の如く、当時の清は外政機構も十分に整っておらず、厳密な意味で外交文書と呼べるような文書が蓄積されていたわけではないが、外交史の研究はこれまで着実に積み重ねられてきた。
だが、それは一面において近代外交のコンテクストに馴染みやすい要素を当時の史料から選択的に読み取る営みだったのではないか。後世の研究者が史料から読み取ろうとした外交の断面と当時の官僚が史料に書き込もうとした統治の常道との乖離を正確に把握するために、従来の中国近代外交史研究が外交文書として取り扱ってきた『籌辦夷務始末』を国内統治の観点から読み直すこと、これが本研究の課題である。
例えば、1861年に設立された総理衙門は、近代的な外務省とは言えないまでも、ある時期においては清の外政の中心であったと位置づけられ、多くの研究者の注目を集めてきた。しかしながら、後世の研究者が外政機構としての役割を検証しようとする一方で、清の官僚たちは当初から一貫して総理衙門が取り扱う業務を限定し、その規模と権限を縮小し、将来の廃止を目指していた。
清の当局者たちは、表向きは制度を改変する動きを見せつつ、他方で、まず外国との間で生じた問題をより小さな政治課題の文脈に位置づけ直してその業務の範囲を限定し、さらにその業務を担う新設機関を形骸化し、ゆくゆくは旧来の制度の枠組みの中で処理できるように取り計らうことを常としていた。つまり、19世紀半ばの清の制度変容をめぐる問題の核心は、何を変えようとしたかにあるのではなく、どこに戻そうとしたかにあるといえよう。
1860年代の清においては、太平天国・捻軍などの反乱とロシア・イギリスなどの外国は天朝にまつろわぬものたちという意味では同じ枠組みの中に位置づけられる「異物」であった。夷務は、こうした内乱と外敵が截然と分かたれていない、対外関係と国内問題を包括する視座を有する官僚たちが処理する課題の一つであった。換言すれば、当時の清は、外交政策や対外政策という意味でのforeign policyではなく、版図の内側の異物対策としてのforeign policyを追求していたといえよう。
近代の歴史においては、「近代」化するために「改革」が行われ、新たな「制度」が何を「実現」したかに関心が向けられてきた。ところが、19世紀半ばの清の官僚たちの議論を見ると、極力「改革」を回避しようとし、また、新たな「制度」が機能しない方向を注意深く模索している。それはまるで“不用の用”とでも言うべきもので、様々な要求を突き付けてくる外国と正面から渡り合わないことによって渡り合って行こうとする戦略のようにも見える。外圧とがっぷり四つに組むのではなく、迫り来る「近代」をいなす構えはどの程度通用したのか。その実像に肉薄する研究に引き続き取り組みたい。
2019年5月 ※現職:日本国際問題研究所 研究員