成果報告
2017年度
映像の「作者」に関する理論構築――1960年代日本映画・映画雑誌の比較芸術研究
- 東京大学大学院総合文化研究科・教養学部附属EALAI 特任助教
- 堀江 秀史
研究の動機、意義、目的
本研究は、表現手段であり記録手段でもあり意味を伝える手段(媒体)でもある〈映像〉なるものに対して、1960年代日本の芸術家たちが寄せた期待あるいは疑念について研究するものである。中心となる問いは、「映像の作者とは誰か」というものとなる。
わたしはこれまで、1960年代の映像文化について寺山修司を中心に研究を進めてきた。寺山個人の多分野に亘る活動と、様々な分野の芸術家たちと創作する集団芸術の実践を知るにつけ、「寺山の作品」を「寺山の作品」と呼ぶ根拠はどこにあるのか、そもそも映像作品における作者とは何であるかという問いを抱いた。これを一般化すれば、本研究の「映像の作者とは誰か」という問いへと繋がる。即ち本研究は、様々な技能、職能を持つ人々が集まって初めて完成する総合芸術たる映画における〈作者〉とはいかなる概念であるかを問うのである。
こうした問いは世界各国の映画関係者のあいだではたびたび議論されてきており、特段新しいものではない。しかし、凡そ明快な答えなど得られそうもないこの問いを巡って、芸術家たちが培った言説を、1960年代日本の映画及びそれに関わった諸ジャンルの芸術家たちの理念を材にとって再度検討することで、映画を芸術諸ジャンルが結集する場として捉える新たな比較芸術論をうちたてることが可能だと考える。
こうした問いを考えて行くことは、例えば、これまで大量に生産されてきた映像作品等の資料が権利問題により陽の目を見ることなく死蔵されるといった現代社会が抱える問題に対する、理論的な基盤を提示することに繋がるだろう。本研究は、映画を事例に〈作家〉なる存在を問うことで、1960年代日本の映像史を再構築しようとする学際研究であり、映像コンテンツがますます多く作られ混迷の度合いを増す昨今、その台頭が始まる前の時代を改めて問い直し、現代の映像環境を相対化することを可能にする筈である。
研究成果や研究で得られた知見
1960年代の他の芸術家たちの活動や映画作品の分析を始める前提として、本研究の起点であり基盤でもある寺山修司に関してすでに記した博士論文の成果を編み直して世に提示することが必要となる。助成を頂いた本年度は、この課題に力を尽くした。成果発表のひとつとして本年度は、編著『ロミイの代辯 寺山修司単行本未収録作品集』を幻戯書房より公刊することが出来た。ここでは、詩人寺山修司の正確な活動の軌跡を提示すると同時に、模倣にまつわる寺山が巻き起こした問題、あるいはそれに対する弁明などから、〈作者〉や〈オリジナリティ〉といった概念に対する同時代のアプローチと考え方についてまとめることが出来た。また、同時代の人脈や写真史についてもまとめ、時代の描き直しも行った。
今後の課題・見通し
しかし今年度は、博士論文そのものを単著として出版することまでは叶わなかった。作業を引き続き進め、翌年度内の刊行を目指したい。その他、寺山修司の写真分野の貢献をさらに明らかにすること、そして芸術作品と現実社会の関係についての考察、あるいは寺山の生涯とはどのようなものであったか、以上のテーマを数冊に分けて、一般書として数年以内に刊行したい。それによって、映像の作者を巡る問いを展開するための基盤を作る。
その後に以下の研究へと歩を進める。本研究が参照すべき先行研究を有するのは以下の四つの分野であり、この研究はそれら全てを統合して学際的な研究として発展すべきものと考えている。
一つ目は、文学の批評理論である。比較文学の影響受容論は、テクストの内容の起源(オリジナリティの在所)を求めるものであり、最も蓄積のある文学研究から、その手法を応用できる。また、ナラトロジーから、テクストの「語り手」の問題を掬い、それと〈作者〉の関係を問うことで〈作者〉論を展開しうる。
二つ目は著作権法である。総合芸術としての映画を諸要素に分解し、特定の人間に帰属させる同法とその適用事例を参照したい。
三つ目は、日本に1970年代~80年代に移入された映画記号論である。『季刊フィルム』、『芸術倶楽部』、『イメージフォーラム』の各誌を精査してその内容を本研究に応用する。
四つ目は、アーカイブスの分野である。文化遺産を保存し、必要に応じて活用するには、保存資料の情報を整理して、テクストを各要素とその「作者」へと還元せねばならない。そこに対するアプローチをこの分野の成果を通じて考える。
まだまだ長い道程ではあるが、この二年間の助成を通じて、一歩づつ確実に前進を続けることが出来た。今後もその歩みを止めることなく研究を続けていく所存である。
2019年5月