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研究助成

成果報告

若手研究者のためのチャレンジ研究助成

2016年度

iPS細胞の医療応用における社会と科学の相互作用:日英仏の実験室の実践に注目して

日本学術振興会特別研究員(PD)
鈴木 和歌奈

研究の動機・意義・目的
 近年、生命科学研究についての人文社会科学的な研究は、政治思想的研究、法学的研究、比較史的研究など生命倫理に着目したものが主流である。これらに対し、本研究は、iPS(induced Pluripotent Stem=人工多能性幹)細胞の医療応用プロセスを、文化人類学が発展させてきた民族誌の手法を用いて明らかにした。具体的には、いかにiPS細胞という技術が科学的、文化的、政策的文脈に浸透し、それらを再編するのかを実験室の長期フィールドワークにより実証的に解明した。これにより「いかに生命科学研究が社会を変えるのか」という大きな問いにアプローチした。
 本研究は、科学技術をラボの実践だけでなく、研究所の組織や政策などと切り離すことができない連続的な実践と見なし、科学技術論で乖離していたミクロとマクロのアプローチを結びつける「拡張型実験室研究」を行った。事例として申請者はiPS細胞の科学的成果を再生医療へ応用するプロジェクト型の実験室を選び長期フィールドワークを行ってきた。
 実験室の分析と再概念化において重要な役割を果たすのは、細胞やモデル動物などの「生きている人工物」である。既存の実験室研究では、これらは、コントロール可能な道具として描かれているが、本研究はケアの理論から洞察を得て、人工物の「生きている」側面や不安定性、それに伴う動的なプロセスを描き出した。例えば、生命科学研究では、細胞を育てたり、実験動物を適切にケアしたりすることが実験を左右し、そこに愛着のような情動や細胞、実験動物のリズムに人間の生活リズムが同期するといった身体的な関わりが生じる。科学技術の実践は、一般的に対象物を利用可能なものにコントロールする作業であると理解され、ケアや感情と一見無関係に見える。しかし、本研究では、人間と細胞や動物の間に生じるケアの関係に注目し、生命を利用する際のコントロールとケアの間の緊張関係を描く。そのうえで「生きている人工物」の不安定さやそこに生じる緊張関係がいかに資本、政策などの広い文脈に影響を与えるのかを詳細に分析した。これにより、細胞の不確実性やそれをケアしようとする実験室の実践が、資本や政策などの広い文脈といかに関係付けられるのかを描き出した。

これまでの研究経過および得られた結果について
 【1.理論的検討】先行研究の検討により、実験道具、ラボの組織、制度など多様な結びつきが科学実験を駆動すると分析した科学史家のHans Jorg Rheinbergerの「実験システム」の概念が拡張型実験室研究に有効であることがわかった。申請者は、iPS細胞の医療応用の特徴を捉えるため、論点を拡張し、生きている人工物が実験室を超えて社会組織に及ぼす影響を分析するための枠組みである「エコロジー」の概念を提唱した。「エコロジー」により、生きている人工物をケアする実験室のミクロな実践が、ラボ組織のケア、政策や制度の維持やケアにつながっていることを示した。
 【2.細胞培養における言語・情動】iPS細胞の再生医療応用において、最も重要な作業である細胞培養に着目し、培養技術の熟練、情動、言語がいかに結びついているかを明らかにした。村上ラボの扱うiPS細胞は、不安定で培養が難しく、性質にバラツキがある。そのため、培養者は細胞の微妙な違いを見極めるため、「ピカピカ」「ツヤツヤ」といったオノマトペ(擬態語)を使う。申請者はオノマトペの役割に着目し、「ケア」や「身体化」の概念を用いて、細胞を見極める「眼」と技術の向上、細胞に対する愛着の関係を明らかにした。
 【3.動物実験におけるケア】ラボで行われている動物実験に着目し、科学者が動物へのケアと殺処分をいかに行っているかを詳細に分析した。これまで実験動物と科学者の関係は、実験室における実験プロセスに焦点が当てられていたが、申請者は日本の動物実験をめぐる文化・歴史的背景、ガイドライン、研究所の制度など多層なレベルに着目し、どのように動物のケアの論理や実践が絡み合い、緊張関係や矛盾が生み出されているのかを明らかにした。
 【4.iPS細胞の誕生と期待の形成】なぜiPS細胞が多様な分野に浸透し、科学者、患者、政策立案者などの多様な関係者の未来や実践を喚起した一方で、ファンディングや政策支援が再生医療のみに集中することになったのかを「期待の社会学」「未来想像装置」の概念を使い明らかにした。実験室研究を行うことで言説分析にとどまらず、iPS細胞のもつ不確実性や多様性と期待の形成を結びつけて論じた。
 以上の事例研究と理論をまとめ、申請者は英語で博士論文を執筆し、2017年12月に大阪大学人間科学研究科へ提出した(タイトル“Towards an Ecology of Cells; An Ethnography of iPS Cell Research and Regenerative Medicine”)。これらの成果を通じて、生命科学の実験室の知識生産と社会的制度の結び付きを捉えるための理論を発展させることができた。加えて、生命を操作することの社会的含意や生命と社会の変容の一局面を解明することができたと考える。

 助成開始時には、日本と海外の実験室の比較研究を行う予定だったが、妊娠・出産のため、予定を変更し、日本の実験室のデータをもとに分析・執筆を行った。

 

2018年5月

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