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研究助成

成果報告

若手研究者のためのチャレンジ研究助成

2016年度

帝国の競争的海域:ベーリング海の国境地域の形成、1867~1941年

イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校歴史学部博士後期課程
伊藤 孝治

 本研究はベーリング海の国境地域が19 世紀末から20 世紀半ばにかけてどのように形成されたのかを海洋生物資源をめぐる国際法体制の変容との関連で分析することを目的としている。特に本研究が注目するのは、第二次大戦後に米国が海洋生物資源の保護の名の下に海洋生物資源に対する排他的管轄権をベーリング海の公海上にまで拡大し、ベーリング海を制度的に領域化していった過程である。本研究はなぜベーリング海が第二次大戦後に領域化された空間として出現したのかを特に戦間期から戦後にかけて分析する。
 本研究を始める上での大きな動機の一つはこれまで歴史家が「陸地」に多くの注意を払い、その結果として歴史的空間としての「海洋」を等閑視してきたことにある。例えば、米国史の研究者は20 世紀を米国の海外膨張の時代と位置づけ、米国がいかにその政治的・経済的・軍事的・文化的影響力を対外的に投射してきたのかを分析してきた。これらの研究の問題点は、米国の影響力の拡大が海洋を越えて実現したと考え、海洋そのものを非歴史的空間として捉えることにある。重要であることは第二次大戦後に米国の政治的影響力が海洋においても拡大したことである。本研究は海洋を歴史的空間として扱い、陸地中心主義的な歴史観に反論する一試みである。
 また本研究には海洋生物資源をめぐる抗争を考える上での新しいパラダイムを提示するという意義もある。これまで海洋法制史を研究する歴史家や法学者はベーリング海の領域化を同海域における海洋生物資源をめぐる漁師間の抗争との関連で検討してきた。そのため先行研究は漁師の経済的福祉を保護しようとする力学がベーリング海の領域化を生み出したと解釈してきた。本研究は海洋生物資源をめぐる問題を漁師の経済的問題としてだけ見るのではなく、漁業およびその行為者としての漁師を多面的に捉え直す。特に注目すべきは漁業が持つ食糧生産としての側面、および漁師が持つ戦略地政学的行為者としての側面である。本研究は、海洋生物資源をめぐる抗争がベーリング海の領域化へとつながる力学を生み出したと考える点では先行研究と同じであるが、海洋生物資源をめぐる対立を漁師の経済的福祉をめぐる問題よりも大きな枠組みの中で歴史的文脈も考慮して再検討する。その結果、本研究はベーリング海の制度的領域化の過程をより多角的かつ包括的に検証することを目指す。
 筆者は2017 年7 月から本研究の調査を本格的に開始し、米国国立公文書館、アラスカ大学フェアバンクス校図書館、カリフォルニア大学バークレー校法学図書館、メリーランド大学図書館、ワシントン大学図書館、東京海洋大学図書館、国立国会図書館、外交史料館、函館市立中央図書館、北海道大学図書館、そしてカナダの国立図書館・文書館で史料調査をおこなった。
 本研究で得られた知見は以下の三点にまとめることができる。まず第二次大戦後にベーリング海の領域化につながる重要な出来事は、1937-38 年にかけてアラスカ沖の公海において日本人の遠洋漁業者が引き起こした日米間の漁業紛争(ブリストル湾事件)である。その漁業紛争で問題となっていたのは日米の漁師の経済的福祉だけではない。漁業関係者ではない米国市民も日米間の漁業問題に大きな関心を示し、彼らは日本人遠洋漁業者の活動をアラスカや米国西海岸の安全保障に対する脅威として捉えていた。これはワシントン体制の崩壊、満州事変・日中戦争の勃発といった国際的な地政学上の変化が日本人の遠洋漁業者に新しい戦略地政学的意味を与えたからである。また戦間期にかけて過剰人口・食糧不足といったマルサス的懸念が世界大に叫ばれるようになり、海洋生物資源が持つ食糧としての重要性が再評価されたことも考慮する必要がある。戦間期は魚肉がその生産量が限界に達していた農産物・畜産物(特に獣肉)の代用品として注目されるようになった時代であり、栄養学者によって魚肉の栄養・健康に関する知識が拡大し、米国だけではなくカナダや日本でも食糧安全保障の観点から海洋生物資源に新たな重要性が与えられた。最後に、戦間期の日本は海洋生物資源が持つ工業的可能性にも期待していた。日本の科学者や軍人は魚油からガソリン、グリセリン、ダイナマイトを、オットセイやサメの皮から軍服を、といった具合に軍需品を生産することで、中国大陸における日本帝国主義を推進しようとした。つまり、第二次大戦後にベーリング海の領域化が引き起こされたのは、戦間期に米国・カナダ・日本で海洋生物資源の持つ食糧的・工業的重要性と遠洋漁業の持つ戦略地政学的意味が当時の社会的環境や国際的地政学との関連でトランスナショナルに変化したからである。そしてベーリング海の領域化を生み出す上で漁師、政府高官、政治家だけではなく、科学者、法学者、消費者も重要な役割を果たしたと言える。
 筆者は本研究をまとめて博士論文としてイリノイ大学に提出する予定である。ベーリング海の領域化の過程は、漁業関係者、政府高官、政治家といったエリートな行為者のみに焦点を当てているだけでは説得的に説明できない。科学者、法学者、環境保護者、先住民、消費者、国家主義者といった行為者がその過程にどのように参加したのかを今後の課題としてさらに研究していきたい。

 

2018年5月

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