成果報告
2016年度
フランス第二帝政期におけるサロン戯画研究
- 東京大学大学院総合文化研究科博士課程
- 井口 俊
研究の動機・目的
本研究は、フランス第二帝政期(1852-1870年)の新聞、雑誌に掲載された、「サロン戯画」と呼ばれる批評ジャンルの歴史的展開を把握し、その特質を明らかにすることを目的として行われた。サロン戯画とは、17世紀以来パリで行われていた公式の展覧会(サロン)に出品された作品やその作者、展示室に集った観衆たちを風刺的に描いた、「イメージによる批評」とも呼ぶことの出来る図像を指す。
1970年代以降の美術史学においては、美術作品を歴史的なコンテクストから切り離して解釈するのではなく、各時代の文化的、社会的、政治的状況と照らし合わせることで、その生成過程や受容史を理解しようとする試みが盛んに行われてきた。そうした動向を踏まえた先行研究でも、美術批評やサロン戯画が取り上げられ、特に前者に関してはボードレールやゾラといった著名な作家、詩人たちはもちろん、無名のジャーナリストまでをも網羅した事典が編纂されるなど、大きな進展を見せている。一方のサロン戯画は、作品を揶揄し、読者に笑いを提供することを一義とするジャンルの性質上、作品がいかに批判的に論じられたかを示す証拠として、もしくは既に現存していない作品の姿を再現するのに適した資料として用いられることはあれども、それ自身の持つ批評性が研究対象とされることは少なかった。しかしながら、ある作品を戯画化するためには、その作品の特徴を成す箇所を正確に掴んだ上での誇張や歪曲表現が必要不可欠であり、戯画画家の作品理解が美術批評家に比べ一概に劣っているとは言い切れない。それにもかかわらず、フランスにおいても論じられることの少ないサロン戯画に、興味関心と研究の可能性を抱いたことが本研究の動機である。
研究で得られた成果・知見
本研究を遂行するにあたり、パリのフランス国立図書館およびオルセー美術館資料室などの関連施設で、第二帝政期に発表されたサロン戯画を現時点で可能な限り閲覧、複写することが出来た。帰国後には、現地調査で得られた資料を用い、各年度のサロンにおいて戯画化された作品、芸術家を一覧にまとめたリストを作成した。サロン戯画に関しては、こうした基礎的な作業がほとんどなされていないため、研究の第一段階として重要な成果と捉えられる。また、現在ではあまり知られていない戯画画家たちの伝記的情報を充実させるべく、彼らの活動期間や美術教育の有無、寄稿した媒体とその性格などを調査した。さらにサロン戯画にしばしば見られる技法(細部の拡大、画面の切断、登場人物の人形化、画面外の要素の挿入など)を分類した。
続いて、作成したリストを用い、特にサロン戯画の発表数が増加する、1860年代の各サロンで複数回にわたり戯画化された作品を選び出し、カタログや美術批評、国家購入の記録などを手掛かりに、戯画画家たちが注目した作品に対する同時代の評価を確認した。ここで明らかになったのは、芸術家の知名度や既存の評価と、サロンにおける作品の注目度は必ずしも一致しておらず、戯画画家が取り上げたことを契機に、その作品が美術批評の記述の中に多く表れ始めるという現象である。従来の研究では、有力な批評家が公衆の趣味を先取りし、作品受容の筋道を付けると見なされがちであったが、むしろ戯画こそがその分かりやすい外見も相まって、これからサロンに足を運ぶ愛好家たちの評価に少なからぬ影響を与えていた可能性も考えられる。また、サロン戯画の下部に付された説明文を丁寧に読み解くことで、美術批評とサロン戯画が相互に参照し合い、執筆を行っていた事実も明らかにした。説明文が、同時代の事件や流行を引き合いに作品を記述していることは既に指摘されていたが、他の美術批評や戯画を巧みに引用しつつ、またそれすらも揶揄することで、自らを差別化していたという点は今後さらなる検証を要するだろう。
上述の通り、本研究においては、基礎的な調査から、用いられた技法の分類、間テクスト的なあり方の考察など、サロン戯画研究の第一歩となるような作業を行い、その複雑な様相を示すことが出来た。これら研究成果は、準備中の複数の論文に組み込まれ発表された後、2019年度に提出予定の博士論文においてまとめられ、より詳細に論じられることとなる。
今後の課題
本研究は、サロン戯画を構成する図版と説明文の関係性に着目し、その特質を考察してきたが、同批評ジャンルを最も特徴付ける同時代的な笑いの感覚、すなわち読者が戯画のどこを面白がっていたかを明確に説明することは未だ容易ではない。単純な擁護でも批判でもなく、笑いというものが果たした批評的な機能を解き明かすため、今後は他領域の研究者にも協力を仰ぎ、より多角的にサロン戯画にアプローチすることで、その疑問に一つの解答を提示したい。
2018年5月
※現職:昭和女子大学、立教大学非常勤講師