成果報告
2016年度
居住者と旅行者の美的経験における差異と交流――地域芸術祭を事例として
- 東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
- 青田 麻未
研究の動機・意義・目的
本研究は第一に、人間が居住する環境における我々の美的経験(=感性を通じての経験)の多様性について、理論的に説明するものである。本研究は第二に、多様な美的経験が交わる事例として地域芸術祭を取り上げ、そこで起きていることを美学的に解釈することを目的とする。
本研究が足場とする英米系の環境美学・日常美学とは、自然や人間が居住する環境、日常のなかの事物や行為といった非芸術の対象を前にした美的経験の諸相を明らかにする分野である。この分野の先行研究を吟味することで、2つの問題点が浮かび上がった。ひとつは、議論がつねに「我々」「鑑賞者」というような大きな主語で以てなされているということである。環境と人間の関わり方は多様であり、この関わり方の違いは環境における美的経験にも反映されるはずである。そこで本研究は、居住者と旅行者という2つの典型的なケースに注目し、個々の立場ごとの美的経験の差異を描き出すことを試みる(=(1)哲学的研究)。もうひとつは、日本国内におけるこの分野の応用研究が立ち遅れていることである。西村[2011]など英米系環境美学に関する国内の先行研究は確かに存在しているが、しかし日本国内の事例に目を向けて理論を洗練するところにまでは至っていない。そこで本研究は、日本国内で近年多く開催されている地域芸術祭を事例とした分析・調査を行うことで、環境美学理論のさらなる深化を目指すこととした(=(2)実践分析・調査)。
研究成果や研究で得られた知見
(1)哲学的研究:①居住者の美的経験については、「親しみfamiliarity」を感じる経験に的を絞り研究を行った。この類の経験についてはすでに、そもそもこれを美的経験と呼ぶことができるのか、美的経験であるとしても「美しさ」を感じる経験と並び立つような経験なのかをめぐって議論がなされている(Haapala[2005]、Leddy[2012]、Saito[2017])。親しみの経験が軽視される理由として、それが平凡なものに対する経験であるということが挙げられる。しかし、親しみの経験は、単に目の前の環境の現在を知覚することでは成立せず、時間的な積み重ねを必要とする。つまり、居住者は今この時のみならず、居住地の過去の姿をも想像力で補うことではじめて、親しみを感じることができる。このとき美的経験の対象は物理的に目の前にあるもののみならず、時間的な層をも含み込むものになっているのである。本研究を通じて時間という要素の介在が明らかになったことで、居住者の経験も意義ある美的経験として承認することが可能となった。②旅行者についても、その環境における美的経験は浅薄なものである、と先行研究でしばしば批判されてきた(Cf. Carlson [2009])。しかしこの種の批判はそもそも、いわゆる風光明媚な場所で、写真撮影などの紋切り型の行動に快を見出すタイプの人々のみを旅行者として想定している。実際には旅行とは、より多様な形態を取るものであろう。そこで美学の文脈を離れて観光学へと目を向け、Cohen [2004]における、経験の質をもとにした旅行者のタイプ分けを参照した。そして、前面に出て働く感覚が違ってくること、滞在回数・滞在時間などの影響から、旅行のタイプが異なることで美的経験もまた違ったものになることを明らかにした。
(2)実践分析・調査:(1)の哲学的研究を基礎としつつ、居住者と旅行者の美的経験の差異とその交流のようすを明らかにするために、近年国内でさかんに取り組まれている地域芸術祭のうち奥能登国際芸術祭(於 石川県珠洲市)を事例として分析・調査を行った。この種の行事には、旅行者が単なる来訪を超えて、居住者と交流することがプログラムされている場合が多い。そのため、両者の交流について考える好例となる。芸術祭関連出版物における言説の分析に加え、現地にて居住者・旅行者双方に対するインタビュー調査を行った。その際、①「珠洲市のなかで気に入っている風景」と②「芸術祭期間中の居住者あるいは観光者との交流の有無」を主な質問とした。①について、旅行者が主に宿の窓から見た海や、作品設置場所を挙げるのに対し、居住者は自分が内側にいるような経験、時間幅を必要とする経験のなかで出会う風景に言及する傾向があった(Cf. 海水浴中に見る海、毎年の祭りの風景)。②については、旅行者は居住者におすすめの場所などを尋ねることで居住者の美的経験を学ぶことに努めており、逆に居住者は、旅行者の来訪をきっかけとしてふだん自分がしている美的経験に注意を向けるようになったと話していた。
今後の課題・見通し
本研究は実践分析を通じて、哲学的理論を洗練することをひとつの目標としていた。インタビュー調査の結果のなかには本研究の理論を裏付けるものもあったが、今後はより多くの事例に触れることで、理論を洗練していく必要がある。この研究は、日本学術振興会特別研究員PDとして引き続き深めていく予定である。
2018年5月
※現職:日本学術振興会 特別研究員PD(成城大学)