成果報告
2016年度
米国施政権期沖縄における日台メディア関係史―映画・ラジオ・テレビを中心に
- 神奈川大学 非常勤講師
- 八尾 祥平
1.研究の動機
米国施政権期の沖縄では、映画・ラジオ・テレビといったさまざまなメディアが、戦後の冷戦体制によってつくられた地域の境界を越えて入り組む状態にあった。
たとえば、1959年公開の松竹映画『海流』は、劇映画としては戦後初となる沖縄ロケ映画として話題となり、翌年には台北でも公開されている。当時の台北では沖縄のラジオ放送の電波が届いており、日本教育を受けた台湾人のなかにはその内容を聞き取ることができる者もいた。こうした背景があり、台北で『海流』を観た台湾人が沖縄のラジオ局宛に日本語でその感想を送るという出来事があり、当時の沖縄の地元紙ではこのことが驚きをもって報じられてもいた。また、1960年代に日本からの支援を受けながら台湾でテレビ放送が開始された結果、石垣地区では日本のテレビ放送受信よりも先に台湾のテレビ放送が受信・視聴されるようになっていた。
近年、アジアを対象にしたメディア史研究の分野では、各地域でめざましい研究の蓄積がみられる(三澤・川島・佐藤 2012、貴志・川島・孫 2015など)。とりわけ、台湾と沖縄についてみれば、台湾は中国との関係に、沖縄は米国・日本との関係(宮城 1994、大城2012など)という枠組みから論じることが主流となっている。その一方で、上述の沖縄をめぐる日本・台湾関係という枠組みからのメディア研究については研究の蓄積があまりみられず、今後の研究課題となっている。
2.研究の目的および意義
本研究では、米国施政権期の沖縄とメディアを題材に日台関係の重層性を実証的に検証する。本研究を通じて、日本の敗戦によりナショナルな境界が縮減したという歴史観によって埋もれた冷戦期の日本と東アジア・東南アジアを行き来した人とモノの結びつきを掘り起こし、「国境」を越えてあらわれる東アジア・東南アジアのなかの日本の複数性・重層性とその意義を考察したい。
メディアを通して米国施政権期の沖縄をめぐる日本・台湾関係をみることは、同じ自由主義陣営ではあっても沖縄の地位については日本と台湾で対立するという、単純に「自由」「共産」という対抗軸だけでは捉えきれない冷戦期の日本をめぐる国際関係を検証するという重要な課題にもつながっている。
3.内容
①映画:1950-60年代の沖縄・台湾ロケ映画の比較分析
国会図書館・沖縄県立図書館・台湾大学および日台のフィルムセンター等での史資料の収集・整理に基づき、沖縄ロケ映画と台湾ロケ映画の比較分析を行う。これらの映画製作に携わった日台の関係者への聞き取り調査も実施する。
②ラジオ・テレビ:沖縄・台湾間を飛び交った電波の比較分析
①と同様の史資料収集に加え、沖縄県公文書館や台湾・中央研究院所蔵の外交文書などから沖縄・台湾間の電波メディアの状況を解明する。また、当時を知る人びとへの聞き取り調査を実施し、ミクロレベルへの影響も検証する。
4.知見
まず、沖縄ロケ映画である『海流』や中琉合作映画では、メロドラマの男女関係と国家の境界とが密接に結びついたとみることができる作品であった。その一方で、台湾ロケ映画では、たとえば、『金門島にかける橋』では、台湾側で公開されたものでは日本人の主人公と「中国人」のヒロインは結ばれず、日本側で公開されたものとは異なるバージョンが製作されていた。こうした複数のバージョンの製作は、当時の自由主義陣営内での各国の立場の多様さや政治の比重の重さを反映していると考えられる。
次に、オリンピック前後の時期の台湾と沖縄におけるテレビ放送の状況について、台湾では1961年にテレビ放送が開始された一方で、沖縄では1964年の東京オリンピックの開催に間に合わせるようにマイクロ放送網が整備されたということがこれまでの通説となっている。しかし、台湾と沖縄での地元紙の記事収集や聞き取り調査の結果、八重山地域、とりわけ、もっとも台湾に近い与那国島では台湾のテレビ放送が視聴されていたことが明らかになった。東京オリンピックは石垣島では特別にアンテナを敷設し、テレビでみることができたとされてはいたものの、離島部のさらに離島では独自のメディア空間が現出していた。その一方で、台湾の東海岸部で暮らす台湾原住民のなかには、中国語は理解できないものの、日本語を理解できる人びとがいる。彼らは台湾のテレビ放送の内容を詳しく理解できないため、かつては沖縄のテレビ放送を視聴し情報を得ていた。戦後の台湾・沖縄間では、先行研究ではみえてこなかった、ナショナルな枠組みには容易には回収されない、多様なメディア空間が住民によって開かれていたのである。
5.今後の見通し
沖縄をめぐる日台関係を考える際に、米国は重要なアクターである。メディアにおいても、テレビや海底ケーブルの敷設などで米国が台湾・沖縄・日本に対して主導的な立場にあったことは否定できない。また、松竹映画『海流』が公開された翌年の1960年にハリウッド映画による初の沖縄ロケ映画である『戦場よ永遠に』が公開された。『戦場よ永遠に』は米軍のサイパン上陸の場面の撮影を沖縄県宜野座村で行われた。英米圏では映画やテレビ番組などとハワイとの結びつきについて批判的に検証した研究(Konzett 2017など)もあるものの、沖縄など、環太平洋の他の島嶼地域との結びつきについて分析したものはほぼ見られなかった。沖縄・台湾・ハワイは、戦後も観光化による楽園イメージと、そのイメージとは裏腹に冷戦体制下における重要な軍事拠点でもあった地域として共通点もみられる。今後は環太平洋というより広い地域の枠組みのなかで、アメリカと日本が自由主義陣営のメディア網整備した冷戦体制とメディアとの連関を島嶼地域から再検証し、従来の冷戦期をめぐる議論を新たに展開させることを目指したい。
2018年5月