成果報告
2016年度
文学・文化を通して見た現代ロシアの精神構造
- 東京大学大学院人文社会系研究科 博士課程
- 奈倉 有里
研究概要
本研究では現代ロシアの文化面の近年の動向をいくつかのテーマに絞って分析し、また実際に現地に赴き作家、文学教科書執筆者、文化施設のキュレーターなどにインタビューをとることで、文化運動の外的側面とそれの及ぼす影響などについて調査を行うものである。
モスクワにおけるウクライナ文化の衰退
モスクワの中心部にあるウクライナ文化センターで働くアンドレイ・バビコフ氏に、再びインタビューをおこなった。実は前回のインタビュー直後、センターは政治的混乱に巻き込まれ、幾度かの臨時閉鎖やスタッフによる抗議運動を経て、現在は事実上の閉鎖状態に追い込まれてしまった。なにが起こったのか、という質問に、バビコフ氏は「理念の崩壊です」と答えた。「訪れた人がなんらかの感銘を受けてくれることが最も重要だった。スラヴ人に共通の歴史であったり、違うところであったりを認識して、興味を持ってもらうことだ。しかしそれはもはや不可能になってしまった」と。以前は誰にでも開かれていた入り口も、現在はいくつもの手続きを経て入館許可を得ないと入れない。たとえ入ったとしても、内部にあったウクライナレストランやカフェは閉鎖され、図書館へは新しい雑誌が入ってくることもなく、以前は活発に行われていた演劇や展覧会などの文化イベントも息をひそめてしまった。以前のセンターはまた、ウクライナからの旅行者がモスクワに滞在するための宿泊施設でもあった。しかし2017年の末、旅行者の姿は消えていた。残ったのは、入館者を監視する監視員、警備員、清掃スタッフだけだ。2016年夏の時点で「ウクライナ問題は2年前よりは表面的には沈静化したようにみえるが、それはただ社会が分断され、人々は対話するための言語を失った状態にあるためだ」と語っていたバビコフ氏の言葉が、修復のし難い形で現実になっていた。
熱意のあったスタッフが、次々に諦めて辞めていく。バビコフ氏も、センターにはまだ籍をおきながら、亡命文学博物館で新たに働き始めているという。
教科書と言論の問題
ロシアの義務教育向けの文学教科書を多く執筆するボリス・ラーニン氏に今回新たにお話を伺ったのは、2013年に始まった「教科書騒動」である。ラーニン氏の話によると、それは次のような顛末であった――ある現代詩人が、自分が教科書に入れられていないことを政治家ポジガイロに訴えた。ポジガイロはラーニンの教科書に対する反対署名を集め、教育大臣に手紙を書いたことにより連邦社会院で議題にあがった。するとラジオでの生放送での議論、テレビでの議論と、瞬く間に問題が大きくなり、ついにはプーチン大統領がこの教科書を「ヴィソツキー、オクジャワ、アフマドゥーリナ、エフトゥシェンコらを除外」したとして非難するに至った。しかし事実は真逆で、ラーニンはこれらの作家を教科書から「除外した」のではなく「入れた」のだ。「おそらく、発言の原稿を書いた人が間違えたのでしょうけどね」と、ラーニン氏は苦笑いして続けた――「言葉が弾圧される時代には、どんな理由をこじつけてでも弾圧されるのでしょう。でも、ひとつ嬉しかったことがあります。この問題が大きくなったとき、作家のドミートリー・ブィコフがフェイスブックに、私を擁護する記事を投稿しました。すると瞬く間に2万の“いいね”が集まったんです」。しかし、公的メディアへの規制が強まるなかで、SNSに対する規制が今後どうなっていくのかについては、まだ不明瞭な点が多い。
ロシアにおける日本年
2016年12月のプーチン大統領訪日の際に、2018年は「ロシアにおける日本年」及び「日本におけるロシア年」となることが決められた。ちょうど2018年初めにモスクワでお会いした日本文学研究者のメシチェリャコフ氏に、このことについて訊ねた。氏は、こういったイベントは、概してフォークロア的なものや大衆文化的なものに偏りがちであるという批判もある。とはいえそれでも、お互いに罵り合うよりはよほどいい。それに、やはり一般の人にはそういったステレオタイプ的なもののほうが受け入れやすいのだろう、と語った。だが研究者はそういったステレオタイプと闘うことができるし、メシェリャコフ氏はいつもそれを考えて本を書いたり講演をしたりしている。しかし、普段から一面的なステレオタイプを受け入れることに慣れている人々に、「これは、一方ではこうだが、もう一方ではこう」といった話が非常に受け入れられにくいという問題点も日々実感しているという。
文化とはなにか
さまざまな状況で文化に従事する人々にお話を伺ってきたが、これらのインタビューの最後に、ちょっと「たいへんな質問」をすることにしている。「文化とはなにか」を、自身の言葉で表してほしい、というものだ。
これに対してはさまざまな興味深い回答を得てきたが、メシチェリャコフ氏は確信をもって「偏見の集合体ですよ」と語った。以下に、氏の言葉を引用しよう。「物質的な文化についてはひとまず置いておいて、内面的な文化に限ってお話ししますが、あらゆる内面的な文化は、偏見の集合体であり、人と人とを区別するものです。けれどもその“偏見”は、人間を人間たらしめるものでもあります。もし人間があらゆる偏見をもっていなかったら、人間は人間ではなくなってしまうでしょう。だから、この集合体にはいつも細心の注意を払って接しなければなりません。文化は、使い方次第で良くも悪くも利用できるものです。」
では、異文化を深く理解している研究者として、世界のさまざまな異なる文化がどのように共存すべきだと考えているか、というさらに大きな問いに、メシチェリャコフ氏は笑って答えた――「どこかの展覧会で、こういう絵を見たことがあります――仏陀とキリストとモハメッドが仲良くテーブルを囲んで、楽しそうに宴会をしているんです。まあ、モハメッドに酒を飲ませていいかどうかは別として(笑)。でも、彼らがそれぞれ自分らしい服を着たまま、自分の思想を持ったまま、宴会をして(お茶でもいいですが)、平和に語り合っている――その姿はとても魅力的です。文化そのものはもちろん大事ですが、それぞれの文化のなかに“寛容”の精神が生きていることが、最も大切なのです。」
日本書紀から多和田葉子までを幅広く精力的にロシア語に翻訳してきた氏らしいこのチャーミングな回答が、社会の分断や言葉の弾圧の向こうに、強く響いてほしい。
2018年5月 ※現職:早稲田大学非常勤講師