成果報告
2015年度
清代青海モンゴルの「チベット化」の実像
- 筑波大学非常勤講師
- 岩田 啓介
研究の動機・意義・目的
17世紀中葉から現在に至るまで、チベット東北部の青海を中心とする地域には、オイラト・モンゴルの遊牧集団が居住している。この青海モンゴルは、18世紀初頭までチベット王を輩出してダライ=ラマ政権の保護者としての地位を築き上げ、清朝とチベットの境界地帯に位置して、当時の内陸アジア情勢に大きな影響を及ぼしていた。しかし、1723年の内紛と清朝の介入により、盟旗制のもとで清朝支配下に編入されると、チベット王としての地位を失うとともに弱体化し、19世紀には周辺のチベット人との通婚等により言語や習俗等の点で「チベット化」が進行したという見解が先行研究にて定着している。ただ、従来の研究は19~20世紀を対象として編纂史料に基づき考察し、青海モンゴルの「チベット化」が進んだとされる18世紀の状況は十分に研究されず、清朝支配下の社会の実態は不明なままである。しかし、当該時期は、清朝が青海に新たに支配を確立していくと同時に、隣接するチベットや東トルキスタンへと支配・影響力を拡大させた時期に当たり、青海の社会変化や清朝の内陸アジア支配の形成といった、現代中国に連なる社会を形作った重要な時期であった。そこで本研究では、清朝支配下で進行したとされる青海モンゴルの「チベット化」の実態とその背景を明らかにするために、特に18世紀を対象として、これまで利用されてこなかった清朝の公文書(档案)を活用して、青海モンゴル社会の内情と清朝の政策過程との相互関係を分析することとした。
研究で得られた成果・知見
第一に、清朝史料による研究を進める前提として、「チベット化」の地域的特徴を調査した。そして、青海モンゴルの「チベット化」と呼ばれる現象は、主に黄河南岸のチベット人居住地と隣接した集団において確認されるものであり、青海湖の北岸や西岸の地域では、言語や生活習慣等が「チベット化」したとはいえないことを確認した。そのうえで、黄河南岸に居住した青海モンゴルにて「チベット化」が進んだ背景を、社会の変化と清朝の政策史を関連付けて考察することとした。
第二に、第一の成果を受けて、青海を支配下に編入した直後の18世紀中葉において、清朝が青海モンゴルに対して適用した盟旗制の運用実態を分析した。この研究では、中国第一歴史档案館にて調査・収集した「軍機処満文録副奏摺」を利用した。清朝は、既に支配を開始していた他のモンゴル勢力と同様に青海モンゴルに盟旗制を適用したが、青海モンゴルにおいて盟旗制を適用する際に、軍事上の必要性から、青海モンゴルの牧地の北の境界を以前より南に設定した。そして、境界以北に居住した首長らは、境界以南に数百キロの移動を強いられ、牧地の環境の変化により困窮し、清朝に対して元の牧地への移動を要求した。結果として、以前の牧地に近い土地へと移動することになったものの、盟旗制の実施に伴う牧地の設定・移動は、少なからず青海モンゴルに打撃となったことが明らかになった。この内容は、国際学会にて口頭報告を実施した(「清朝対青海蒙古実施盟旗制度的実情」第二届清朝与内亜工作坊, 於中国人民大学, 2016年8月21日)。
第三に、黄河南岸の青海モンゴルに対するチベット人の略奪事件の実態を明らかにし、その背景を考察した。従来、19世紀以降の事件に関する研究が行われていたものの、档案史料の調査により、18世紀中葉の時点で既に青海南部のゴロクと呼ばれるチベット人を中心として青海モンゴルに対する家畜の略奪事件がたびたび発生していた。略奪事件の多発に対して、清朝は卡倫(見張り所)を多数設置し、青海モンゴル全体から兵を動員して定期的に巡察させていた。しかし、清朝支配下において、青海モンゴルはチベット人からの徴税による収入を失い、慢性的な経済的な困窮に陥っていたため、兵の動員は支障をきたし、防衛体制が十分に機能しなくなっていった。以上のような清朝の支配政策と周辺地域の動向から生じたモンゴル社会の状況が、19世紀に黄河南岸を中心とする青海モンゴルに「チベット化」を招く素地となったと推測されることが明らかになった。
今後の課題
本研究では、18世紀中葉までの青海モンゴルの社会変化と清朝の政策過程の関係を明らかにしたが、19世紀以降に連なる変化とその要因は、なお課題が残されている。特に、現地の寺院等に残る同時代資料を収集し、モンゴル・チベット社会内部の視点から、「チベット化」の実情に迫ると同時に、青海に隣接する新疆やチベットにおける清朝の政策の推移と社会の変化を比較検討し、青海の社会変化と清朝の青海政策の特徴をより鮮明に浮かび上がらせることが必要だと考えている。
※日本学術振興会特別研究員PD(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所)
2017年5月