成果報告
2015年度
1920-30年代における日本の探偵小説ジャンルの研究
- 東京大学大学院総合文化研究科博士課程
- 井川 理
研究の動機・意義・目的
1890年前後の翻訳・翻案ものの流行を経て、1920年代に成立する日本の創作探偵小説は、探偵による謎=事件の解決というプロットを有したいわゆる本格ものだけでなく、幻想、怪奇、猟奇、SF、冒険、捕物帳など、多様な要素を持つ小説群を包含していた。それ故に、同時期には本格/変格論争などに代表されるような「探偵小説」という語の範疇をめぐる論争が文壇内で絶えず行われる一方で、例えば犯罪報道において探偵小説が現実の犯罪に結び付けられる形で頻繁に言及されるなど、文壇外の多様な領域の言説に召喚されイメージ形成が行われるという状況にもあったのである。しかしながら、これまで同時期の探偵小説ジャンルをこのような多元的な言説状況の総体として捉える視座を有した研究はほとんど行われてこなかった。
そこで、本研究では、1920年代から30年代における日本の探偵小説ジャンルを、指示対象が曖昧であった「探偵小説」という語を運用し多義的なイメージを付与していった複数の領域の言説と、その定義を試みた個別の作家・批評家らによる批評言説、そしてそれらのイメージや定義と同一化・差異化しながらも探偵小説として書かれ・読まれていた小説言説という、多様な言説が交錯する動態として捉え、考察していくことを目的として設定した。このような問題設定はまた、これまでの文学研究において「作家」や「テクスト」といった要素に比して二義的なものとみなされてきた「ジャンル」を、その生成・流通・受容の各局面において重要な役割を担う要素として再考することにも寄与するものであると思われる。
研究の方法・内容・知見
上記のような問題意識のもと、本研究では、①探偵小説・探偵小説家に言及する他領域の資料の収集・分析、②個別の作家の小説・批評テクストの分析、という二つの方向から検討を行い、それらの連関を考察するという方法をとった。
①では、特に1930年前後の新聞の犯罪報道に着目し、メディア言説における探偵小説のジャンル・イメージの形成・流布の過程を考察した。同時期に新聞・大衆娯楽雑誌などへの進出を契機として探偵小説が広範な読者層を獲得していく過程と並行して、新聞の犯罪報道ではひとつの呼び物として現実の犯罪事件についての探偵小説家の談話が頻繁に掲載されるようになっていく。しかしながら他方で、同一の紙面には、探偵小説を猟奇的な犯罪の誘発要因として断罪する批判的な言及が増加してもいたのである。このように、同時期のメディア言説において探偵小説ジャンルは現実の犯罪に積極的に結び付けられる形で、概ね否定的なイメージが付与されていたことが調査の結果明らかとなった。
②では、これらのメディア言説と各作家の小説・批評実践との連関を江戸川乱歩と浜尾四郎という二人の作家を事例として考察した。乱歩はメディアにより付与された「エロ・グロ・猟奇」という作家イメージを積極的に引き受けることで流行作家となっていくが、他方で同時期の浜尾の「本格派」としての小説・批評実践には、ジャンルの否定的なイメージを流布していたメディアに対する批判的応答という企図が伏在していた。これらの考察から、従来の研究では素朴な探偵小説観の差異として捉えられていた両者の実践が、ともに同時代のジャンルを取り巻くメディア環境に起因したものであったことが明らかとなった。この①、②に関連する最新の研究成果として、同時期の探偵小説をめぐるメディア状況自体を取り込んだテクストとして乱歩の『陰獣』(1928)を考察した論文「転位する「探偵小説家」と「読者」─江戸川乱歩『陰獣』とジャーナリズム」(『日本近代文学』、2016年11月)を発表した。
今後の展開
これまでの作業により、メディア環境と個別の小説・批評実践との往還運動として現出するジャンルの一端を示しえたといえる。今後は、上記の作家や現在調査中の夢野久作・小栗虫太郎らに加え、横溝正史、佐々木俊郎、岡戸武平といった編集者としても業績を残した作家も対象として、そのジャンルの送り手としての多面的な役割を考察していく。また、このような個別的な作家やテクストの分析とともに、探偵小説に言及する犯罪科学・精神医学・性科学等の科学言説や、全集・選集等の広告言説などの調査・分析も行い、同時期のジャンル・イメージの形成に関わった言説の複合的な性質について更なる考察を加えていく予定である。
2017年5月