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研究助成

成果報告

人文科学、社会科学に関する学際的グループ研究助成

2015年度

台湾衛生学の父・高木友枝 日・中・独三言語資料分析にもとづく国際人の肖像

東京大学大学院総合文化研究科 准教授
石原 あえか

《台湾衛生学の父》と呼ばれる高木友枝(1858-1943)の名は、日本国内ではまだあまり知られていない。福島に生まれた彼は、1885年に帝国大学医科大学(現在の東大医学部)を卒業、1893年に私立伝染病研究所に入所し、北里柴三郎の最初の助手となった。その意味で、高木は北里の一番弟子とも言えるが、他の北里の門弟たち、すなわち北島・宮島・秦・志賀は1870年以降の生まれで、年齢差が大きかった。しかも後藤新平の抜擢により、活動の場を台湾に移したことも加わり、その存在は国内で忘れ去られていた。事実、高木を知る唯一の手がかりは、台湾の弟子・杜聡明(1893-1986)が刊行した『高木友枝先生追憶誌』(1957年・非売品)のみという状況だった。

本研究では、高木の外孫、故・板寺氏の遺言で北里柴三郎記念室に寄贈された一次文献の調査・整理・分析を行い、《衛生学》をキーワードに、近代日台独3か国交流史の再構築を試みた。

高木の初のドイツ留学は1897-99年、ベルリンのプロイセン王立研究所(=コッホ研究所)である。1902年、台湾へ(台湾総督府医院長兼同医学校長ほか歴任、台湾電力株式会社初代社長も務め、1929年帰京)。1911年、ドレスデン国際衛生博覧会[略称IHA]の台湾パビリオン責任者を務め、全文ドイツ語の『台湾の衛生状態 Die hygienischen Verhältnisse der Insel Formosa』を編集・刊行した。また2番目の妻(1904年再婚)はベルリンで知り合ったドイツ人女性Minna Ballerstedt(日本名・ミナ、1947年、日本で逝去)で、彼の生涯と業績を把握するには、日・独・台の3か国での調査と3言語を駆使する必要があった。以下、これまでの研究で判明した主要成果を箇条書きで記す。

(1)台湾の医学・衛生領域における活躍と功績
高木は国内(たとえば1899年頃の大阪でのペスト流行)での経験を活かし、台湾赴任後は、伝染病予防に尽力した。また高木の提案で設立された台湾総督府研究所は、先端的基礎医学の実験拠点となった。このように彼が台湾で迅速かつ円滑に衛生行政を構築できた理由のひとつには、後藤との強固な信頼関係があった。加えて新渡戸稲造とも共通理解があったと考えられる。たとえば新渡戸は、「植民事業の根底とすべきものは衛生」、そして「単に領土権を主張するのではなく熱帯病の研究が重要」と述べ(学術雑誌『日本の医界』第229号所収、「医学の進歩と植民発展」1918年参照)、具体的には、マラリア、黄熱病、アメーバ赤痢等を対象として挙げている。

(2)北里一門との相互協力関係
(1)と重複するが、後藤=高木の連携では、日本での長与専斎や北里柴三郎との実践経験が運営の基礎になった。言い換えれば、台湾での事業は、北里が日本で築こうとした医療体制が模範になっている。また1911年ドイツ・ドレスデンで開催された第1回IHAには、日本館を任された寄生虫学者・宮島幹之助らとも協力して、10か月ドレスデンに滞在し、台湾館責任者を務め、日・台両館の両展示を成功させるとともに、台湾の衛生状況および対策を国際的にも広く周知させた。

(3)後進の育成・台湾における評価を含む
台湾総督府医院医長、台湾総督府防疫事務官、台湾総督府専売局技師などの肩書に加え、高木は当初から「台湾総督府医学校長と医学校教授」も兼務した。その時の在校生に杜聡明と頼和がおり、両者の著作からは、植民地統治下での校長という立場にある高木が―当然批判すべき点もあるが―、総じて現地の生徒から、人格的に慕われていたことが窺える。今後は、魯迅との比較なども試みたい。

(4)高木の国際性・政治感覚
後藤新平の植民地統治を衛生事業面で支えた高木は、阿片問題にも積極的に関与した。1909年上海、1911年オランダにて開催された阿片の国際会議に台湾代表として参加している(同年IHAで台湾館責任者を務めたのは(2)で言及した通り)。このような国際性だけでなく、人間関係の調整にも優れた高木は、後年、台湾電力株式会社初代社長に就任している。実際、廉価な電力を供給可能にした電力会社は、台湾の工業基盤づくりに大きく貢献した。

最後に、複数の出張を通して、国内外の研究者および関連研究施設とのネットワークも構築できた。今後はこれまで収集した資料を分析・整理し、現在も北里柴三郎記念室で進む膨大な高木の遺品整理とリスト化と並行して、2016年度末を目標に、本研究の主要成果をまとめ、公表する予定である。国内では知られていなかった台湾とドイツでの高木の活躍を、日本に紹介するきっかけになるものとしたい。

2016年9月


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