サントリー文化財団

menu

サントリー文化財団トップ > 研究助成 > 助成先・報告一覧 > 映画にみる日本・沖縄・台湾の「三角関係」― 米国施政権期沖縄の「沖縄ロケ映画」の国際比較研究

研究助成

成果報告

2015年度

映画にみる日本・沖縄・台湾の「三角関係」― 米国施政権期沖縄の「沖縄ロケ映画」の国際比較研究

神奈川大学 非常勤講師
八尾 祥平

1.研究の動機
 冷戦期の自由主義(または反共)陣営は必ずしも一枚岩の結束をしていた訳ではなかった。このことは米国施政権下におかれていた沖縄の地位をめぐる米国・日本と台湾の中華民国国民政府(以下、国府と記す)および中国国民党(以下、国民党と記す)との見解の食い違いにもあらわれている。サンフランシスコ平和条約によって米国は日本の沖縄に対する潜在主権を認めたものの、中華民国政府はこれを否定する立場を公式に表明し続けていた。米国の占領下にある沖縄とは公式の外交ルートを通じて直接交渉ができないため、国民党の海外工作や国際交流事業を通じて沖縄との関係強化、更には沖縄施政権返還阻止が目指されることとなった。国民党による国際交流事業は貿易や農業技術支援といった経済分野での交流だけにとどまらず、学術やスポーツといった文化事業にまで幅広く及び、沖縄の日本復帰への対抗策が講じられることとなった。
 本研究は米国施政権期の沖縄の地位をめぐる米国・日本と台湾間での見解の食い違いの一端を文化産業である映画を題材にとり明らかにする。


2.研究の目的および意義
 先述したとおり、本プロジェクトでは、米国施政権期の沖縄でロケが行われた日本および台湾の映画作品を通じて、当時の日本政府および国府・国民党との間で沖縄の帰属をめぐり対立していた様相の一端を解明する。これと同時に台湾側で沖縄ロケ映画(以下、「中琉合作映画」と記す)の製作に関与した映画人に戦前から戦後にかけて一貫して日本映画が与えた影響についても考察する。日本帝国の旧植民地であった台湾と現在の日本においてもその「周辺」とされる沖縄間の関係を考察することを通じて、近代日本をより「中心-周辺」といった関係性だけでなく、「周辺間」の関係にも視野を広げて捉えなおしていくための足がかりとしたい。
 近代以降、日本帝国に編入され、日本を通じた近代化がなされていったことの社会的なインパクトについては台湾でも沖縄でも重要な課題として分厚い研究の蓄積がなされてきた。映画についても同様に日本による近代化の問題系に接続しながら議論がされてきたものの、中琉合作映画のような「周縁間」の事例は、沖縄史でもなく、台湾史でもなく、その狭間に落ち込み忘却され、その意義が十分にくみ取られずにいる。本研究を通じて既存の地域の枠組みを越えて東アジア・東南アジアというより広い枠組みを設定し、これまでに問われてこなかった重要な課題を拾い上げ、既存研究を刷新したい。


3.内容
 本プロジェクトで分析の対象とする映画作品は、1959年公開の松竹映画『海流』と『海流』によって触発されて製作されたと考えられる「中琉合作映画」の『琉球之戀』『夕陽紅(夕陽西下)』『太陽は俺のものだ』(撮影は1966年。公開は『琉球之戀』は1968年、『太陽は俺のものだ』は1966年、『夕陽紅』は未公開)を取り上げる。
 『海流』は日本本土の映画会社製作による劇映画としては「戦後」初の沖縄ロケ映画でロケ時から沖縄では大変大きな話題を呼んだ異例のヒット作である。この作品は公開前後の時期の沖縄と日本本土との間で沖縄復帰にむけて盛り上がっていた時期の世相に重ねてみることができる。一方で『海流』公開後の日本本土の映画会社による沖縄ロケ映画の製作ラッシュに対抗するかの如く、沖縄の日本返還を阻止するという国民党の意向に沿って上記の「中琉合作映画」が製作されることになった。


4.知見
 『海流』は台湾でも公開され、新聞には「異民族の男女が結ばれるのは無理がある」という映画評が掲載された。また、那覇のラジオ放送が台北でも聴取できたため、日本教育を受け日本語を理解できる台湾人が台湾で『海流』を鑑賞した際の感想を那覇のラジオ局へ送るということもあった。なお、石垣島では日本本土からのテレビ放送よりも台湾の放送の方が早く視聴できていたなど、沖縄・台湾間の電波メディアの動向とも絡めて本研究における考察を深めていきたい。
 『海流』や「中琉合作映画」には(1)メロドラマで男女の三角関係が描かれる、(2)沖縄側に女性ヒロインを配役するという共通点がある。前者について、『海流』は日本本土出身の男性と沖縄の女性が結ばれ、一方の『夕陽紅』では「中国人」同士であっても悲恋に終わるという違いはあるものの、当時の台湾・沖縄・日本をめぐる状況の暗喩のようにも読める。後者については1990年代の台湾映画や沖縄映画でも沖縄の女性が重要な役を担う作品が多いこととあわせてどのように考えることができるのかが課題となっている。


5.今後の見通し
 本研究を通じて新たに発見された課題は大きく分けて二つある。
 第一に、1950年代から60年代にかけての時期の映画業界では、台湾・沖縄・日本・香港間で地域の境界を越える人やモノの移動が実は盛んに行われていた。とりわけ、香港という旧日本帝国圏とは異なる帝国との周縁間移動については、東アジアのなかで近代日本の複数性を捉えなおすという本研究課題にとっていかなる意味合いを持つのかという新たな研究課題として立ち現れている。
 第二の課題としては、冷戦後の1990年代以降の台湾および沖縄の関係の変化が台湾と沖縄がむすびついた映画作品の製作と如何に関わるのか、さらには、本研究で取り扱われた国府・国民党の思惑に沿った映画製作とは異なる、民主化後の台湾から沖縄をめぐる映像作品が増加しつつあり、沖縄でも同様に台湾との関わりについての作品が増えていることの意義を考察することから、日本による近代化がすすめられた地域のなかで日本本土とは異なる主体性がいかなる過程によって構築されたのかを明らかにしつつ、沖縄と台湾の主体性の共通点と相違点を解明したい。

2017年5月

サントリー文化財団