成果報告
2014年度
ブランド農作物を軸とした地域再生の可能性
― 近代日本の青森県の経験を素材に ─
- 日本経営史研究所 研究員
- 白井 泉
【研究の動機】
戦前期の東北農村は、二大農産品であった「米と繭」の生産に恵まれず、市場経済化への対応の遅れや農業経営の低生産性が強調されてきた。それは昭和初期の娘の身売りや欠食児童等の事象と相俟って、同時代の同地方に暗いイメージを与えてきた。
しかし、明治政府が殖産興業政策の一環として海外から輸入した林檎を導入していた東北地方青森県の農家は、1930年代にそのような問題を抱えなかったともされる。さらに同県南津軽郡竹館村の人々は、元来経済的に貧しい地域であったものの、「竹館林檎」と呼ばれるブランド林檎の生産と販売に成功し、同時期に豊かさを享受していた様子が伝えられている。そして同村を含む同県は、その後も今日まで続く林檎の大産地を形成してきた。
では、それはいかにして実現したのか。そのことを現場の人々の経験から学びつつ明らかにしたいと考えたことが、研究の動機である。
【研究の意義】
経済発展の過程で農業部門は工業部門に対して従属的立場になっていくとの印象がある。しかしそのなかで、農業により飛躍を遂げ、持続的発展を果たしてきた地域が誕生していたとするならば、それはどのようにして可能になったのか。この問いをひもとくことは現代的にも意義があろう。
【研究の目的と方法】
戦前期日本において林檎の有力産地として発展した青森県と同県南津軽郡竹館村に注目し、「青森」「津軽」、そして「竹館」の産地ブランドがいかにして確立したのか、また、その結果が地域をどのように変容させてきたのかを明らかにすることを目的とした。
分析に際しては、これまで目を向けてきた生産現場の産業組合(現在の農業協同組合、JAの前身)の経営や地域リーダーの取り組みに加え、以下の3点を重視した。
1.国、県、郡などの「官」が果たした役割を明らかにする
2.消費地の市場とその主体にも目を向ける
3.農業を軸とした地域再生の可能性について実証的に把握する
分析は、経済史および経営史を基礎にしつつ、現場の方々から学ばせていただくことを重視し、また、開発経済学ならびに人口学など他分野の知見も踏まえることにより、産地とそのブランドの形成の過程と要因、それが地域に与えた影響を、厳密かつ重層的に明らかにすることを目指した。
【研究成果と得られた知見】
研究の目的で挙げた1~3のうち、1と2に関しては、とりわけ農作物の産地ブランドの形成と密接な関わりを持ったと考えられる、明治期以降政府が中心となり大都市で開催された内国勧業博覧会をはじめとする博覧会に注目した分析を行なった。加えて、青森県の農家が、消費地の嗜好を踏まえた林檎づくりをするために、いかなる経営を展開したのかに着眼した研究も行なった。
それらから導かれたことでとくに重要な点は以下の通りである。すなわち、産地間競争のなか、青森県の人々は有力者を中心に組織化を進め、互いに助け合い、切磋琢磨しながら、博覧会の審査基準や市場の潜在的ニーズを満たす林檎を手間暇かけて作り込み、目利きたちの篩にかけられる試練を経験しつつ、「地域名」を林檎の有力産地を示すそれへと育て上げていった。
また、研究目的で挙げた3については、青森県の林檎産地の核のひとつとなった南津軽郡の林檎栽培地域が、1910~30年代のあいだに林檎に重きを置いた経営を導入していく過程で、労働負担を増加させながらも東北他地域に比べて1戸あたり総生産額の急速な成長を遂げたことを数量的に示した。
以上の分析を通じて、決して一直線ではなかったものの、林檎を梃子に市場経済に適応し、自然環境的に厳しい条件下でも選択可能な最善策を経営に取り入れながら、経済活動を営み産地を発展させてきた人々の姿が浮かび上がってきた。
上記の内容は、各種セミナーや学会で報告を行い論文にまとめている。それらのうちすでに刊行されたものとして、拙稿「戦前期青森県における「米と林檎」の農家経営と地域発展」(『農業史研究』第50号、2016年)がある。
【今後の課題・見通し】
現場を訪ねるなかで、林檎産業、そして林檎の樹のある景色を将来にわたって残していきたいとの思いを抱きつつ奮闘されている方々に出会うことができた。史料には残されていない大事なことが数多くあることをいまも教えていただいている過程にある。
100年以上の歴史を持つ産業やそれとの関わりのなかで生まれてきた文化をいかに継承していくのか。過去と現在、そして未来を見据えながらこの課題に真摯に取り組まれていらっしゃる現場の方々から学ばせていただきつつ、経済史・経営史の立場からもなにかしらそれに貢献できるようになることを目標に、今後も同テーマについて勉強・研究を続けていきたい。
2016年5月