成果報告
2014年度
記録と忘却:「イギリス帝国の遺産」作戦の研究
- 金沢大学人間社会研究域 准教授
- 佐藤 尚平
動機
20世紀、ヨーロッパや日本の諸帝国が世界から撤退した時、都合の悪い過去の記録がおそらく大量に処分されただろうということは想像にかたくない。しかし、一体いつ、どれほどの規模で、どのように秘密文書の隠蔽工作が行われたのかということについては、まだまだ謎が多い。世界を横断するような調査が難しいということもあるが、何より「証拠を消す」という行為は、痕跡を残すことが必然的に少ないからだ。
しかし近年、イギリス帝国が20世紀中葉に処分したはずの約2万ファイルの行政文書が、「手違い」により実はロンドン郊外に残されていたことが明らかになった。同じ書庫にはさらに約60万ファイルの秘密資料も見つかった。まさにイギリスとアジア・アフリカ地域、今日我々の生きている世界が「忘れたはず」の記憶だ。本研究は、この忘れられた記録を掘り起こす。これによって、忘却の源泉、すなわちイギリスがかつて遂行した政策、行政文書を選別し隠滅する「帝国の遺産」作戦OperationLegacy(以下OL)の展開を明らかにすることを目指す。
意義
まず、昨年から一部公開が始まった大量の新出史料=OL関連文書群を世界に先駆けて読み解くことが第一の挑戦だ。これは、脱植民地化という世界史的動態についての新しい学問的地平を切り拓くことにつながる。これまでの脱植民地化研究は、イギリスから見た帝国史的な視点と、アジア・アフリカ側から見た地域研究的な視点とに分断される傾向にあった。本研究では、双方が「忘れてきた」記憶を掘り起こし、誰が、何を、なぜ忘れたのかを問う。これは、欧米中心主義とナショナリズムの桎梏を超越して世界の多くの地域で共有出来る新しい歴史的理解を模索することにつながることが期待される。
特に、次の3点にこの研究の特色がある。
①新出史料:学術的・社会的に意義が大きい世界37地域の新出史料を扱う。
②マルチ・アーカイブス的手法:ロンドンで公開され始めた史料を読み解き、さらにアジア・アフリカ諸地域でも新たな調査を行い、各地の資料を照合して総合的に検討する。
③学際性:申請者が専門としてきたイギリス帝国史研究と中東地域研究を組み合わせ、さらにアジア・アフリカ諸地域の研究者とも積極的に交流することで、これまでよりも多くの地域で共有出来る新しい歴史的理解を模索する。
目的
本研究は、イギリスとアジア・アフリカ地域が「忘れたはず」の歴史を掘り起こすための基礎的な一歩として、この忘却の源泉たる文書隠滅政策OLがどのように展開したのかを明らかにすることを目指す。
OL関連文書群の存在が判明して以来、世界各地の歴史家がこのテーマに注目してきた。先行研究が脱植民地化の後のイギリス政府の対応か、OL以前の各地域の状況に焦点を当てているのに対して、本研究ではOLそのものに注目する。そもそもなぜこのような忘却が起きたのかという最も根本的な問題に光を当てるためには、OL自体の展開を理解することが不可欠だからである。
研究成果
イギリス国立公文書館と、マレーシアやスリランカで調査をして、雑誌論文にまとめるための作業を行った。海外の学術雑誌に投稿し、査読でR&Rの結果を得て修正・再投稿を行った。また今後、国際学会でも発表予定である。
新たな知見
実証的な知見は投稿論文にゆずるとして、ここではより普遍的な概念的な知見についてまとめる。今回の作業を通じて何よりも痛感したことは、史料批判を行うことがいかに重要かということだ。そもそも文字資料(史料)を扱う場合、「誰が、何の目的のためにその史料を記録したのか」を考えることが史料批判の柱となる。これは申請者も歴史学の基本として自分なりに実践してきたつもりではあったが、甘かったと感じている。それは、自分の手元にある史料の外側の世界の大きさについて十分に考慮に入れてこなかったということである。
例えば一度作成された史料が、何らかの目的によって抹消されているかもしれない。もちろん、はじめから文字に記されることのない世界もあるし、むしろ世界の出来事の大半は一度も文字に落とされることなく消えていく。今回の調査では、「誰が、何の目的のためにOL関連文書群を隠蔽したのか」を問うてきた。言わば、裏側の史料批判を行ってきたのである。この裏側からの作業を通じて、史料批判という基礎的な作業の重要性と難しさを再認識することになった。これは、イギリス帝国史やアジア・アフリカ地域の民族独立等今回扱ったテーマを超えて、歴史学全体に通じることであろうと考える。
今後の課題・見通し
今後は、イギリス国立公文書館での作業をさらに進めると同時に、まだ調査したことのないアジア・アフリカ地域にも調査対象を広げる。最終的には研究成果を単著単行本として出版することをめざす。
最後に、この研究を支えて下さったサントリー文化財団と、中間報告会で有益なコメントを下さった審査員の先生方に特別の謝意を示したい。
2016年5月