成果報告
2014年度
19世紀イランにおける軍隊への人員調達とその改革
- 上智大学アジア文化研究所 共同研究所員
- 小澤 一郎
問題意識
申請者は今回の研究助成に19世紀イランにおける軍隊への兵員調達のあり方に関する考察を通して、近代軍創設を目指して世紀後半以降に行われた諸改革について研究を行った。
一般論として、兵員としての人的資源調達の問題は軍隊と社会の接点ということができ、戸籍作成・徴税など他の統治行為とも大きく関連しつつ、政権が治下の社会をいかに把握・掌握するか、そして当該社会はいかなる反応を示したのかという問題に直結していた。すなわち、この問題は当該地域の社会組織をあぶりだすうえで好材料であるといえる。
また、西欧式軍隊創設という課題は19世紀の非ヨーロッパ地域(および一部のヨーロッパ地域)が直面した普遍的課題であったといえる。この課題への対応は、政治的独立を達成していた地域も植民地も同様に試みられた。我が国についても、江戸幕府末期の西欧式諸隊や、明治維新後の近代軍創設・拡大などの例を挙げることができる。つまり、比較研究を通じてイランを同時期の世界史の文脈の中に位置づけることが可能になるとともに、非ヨーロッパ地域の人々の「近代」への対応の実際を具体的事例に即して明らかにすることができると考えられる。
一般論として、導入される近代西欧的制度と各地域の社会制度や慣習の間には摩擦が生じることが想定されるが、近代イラン軍事史においてそうした摩擦は従来、近代的軍隊を創設できないという「失敗」として評価されてきた。ここには、従来の研究で主に用いられてきた西欧側史料が無意識に前提としていた、軍事に関する近代西欧的価値観がそのまま反映されていた。今回の研究では現地史料たるペルシア語史料を用いてその実態を改めて検証し、ともすれば普遍的なものとみなされがちな、ヨーロッパ的要素を基礎とする「近代的」兵員調達システムの時代性および他地域への適用可能性とその限界を明らかにし、軍事面における「近代」そのものの問い直しを行うことを目指した。
具体的研究対象と手法
19世紀イランではガージャール朝(1796?1925)の下で近代的軍隊を創設する試みがなされたが、その重要な柱として、世紀中葉以降人的資源の調達方法について制度改革が行われた。今回の研究助成においてはこの兵員調達制度改革を軸に、19世紀後半のイランにおける軍隊への人的資源調達のあり方とその変化を明らかにすることを目指した。
史料としては、まず現地語史料として、イランの各図書館に写本・石版本の形で所蔵されている軍制規則その他の文献を利用した。19世紀後半には西欧式軍隊創設と軌を一にして軍制規則が文章化されたが、その一部は兵員調達のあり方に関する記述に充てられており、当時ガージャール朝がいかなる制度を目指したのかを物語る。一方、具体的な調達手順に関する文献は多くはないが、イラン中央部の都市ガズヴィーンに関するものをはじめ数点が残されており、兵員調達の手続きの実態が垣間見られる。このような現地史料を基に、兵員調達がいかなる仕組み・手続きのもとに行われるものとされていたか、いわば「理想」の側面を解明するのが第1のステップである。
上記の考察の後、西欧側史料にみられる記述を基にして兵員調達の「現実」の側面について考察した。これまで軍事史研究は西欧側史料を使用して行われてきているが、今回はそれらの研究、そして新たな分析結果をもとに、導入が目指された制度とその運用の間にどのような乖離が生じたのか、その原因および意味について考察した。この「理想」と「現実」に関する考察を通して、兵員調達がガージャール朝および治下の社会に与えた影響、ひいては近代軍創設を目指す試みが近代イランにおいて持った意味について検討した。
考察結果
紙幅の関係上、ここでは現地史料の考察について中心に述べる。諸文献中では調達すべき兵員の員数算定など具体的な手続きにおいて「軍財務局」と調達部門との連携を意識されていたことが読み取れる。算定が税額算定などと関連づけられていたことも含め、財政と兵員調達とは一体のものとして捉えられていた。また、兵員調達に際して、西欧式軍隊以前の部族軍や民兵など伝統的軍隊には存在が確認されていない適格性に関する規則を定めていることも特筆に値しよう。この点についての考察はいまだ不十分であるが、西欧的兵員調達の方法から影響を受けている可能性がある。
一方で、兵員招集・点呼や集結地までの派遣など、調達の具体的な事務は地主・村落共同体の長などに一任されており、実質上「丸投げ」に近い状態であったことが推測される。また、兵員の適格性などの規定も比較して比較的緩く設定されていた。こうした特徴は、当時の地方行政の在り方を反映していると考えられる。従来の研究では、19世紀後半の地方行政は都市では街区単位、地方では村落単位で各有力者に一任されていたこと、そして土地制度・徴税制度に関する統一性の不在と地域による多様性が指摘されているからである。つまり、これらの規定はイラン全土で行われる兵員調達の大枠を示したものであり、実際の業務の詳細は現地任せになっていたということができよう。西欧側史料における兵員調達の実態に関する記録との対照についてはここで詳しく触れることはできないが、西欧側の観察者によって常々指摘される兵員調達における「恣意性」や「不規則性」は、こうした実態が西欧的価値観を通して表出した結果ということもできよう。
ここまで見てくると、19世紀後半のイランにおける兵員調達は、西欧式のシステムを現地に適用するというよりは、むしろ現地の実態を色濃く反映させた形で構築されていたことがわかる。ここには、たとえば日本のように西欧式軍隊を関連する諸システム・技術などとともに一つの「パッケージ」として導入し、それによって社会の各側面を改変していくような志向性は希薄である。今後、軍隊のほかの側面に関する考察を行ったうえで結論を下す必要があるが、19世紀後半におけるイランの軍隊は、我々が当たり前に考えがちな「近代的」軍隊像を覆す可能性を秘めているといえよう。
2016年5月