成果報告
2013年度
中世キリスト教世界の「叫び」と「声」
- 東京大学大学院総合文化研究科 後期博士課程3年
- 後藤 里菜
1.研究の目的および背景
本研究は、西洋中世史、歴史学の分野に位置するものである。時代としては12世紀から14世紀頃(盛期・後期中世)を中心とする。中世世界で重要でありながらも包括的な研究は未だ存在しない<叫び>や<声>に着目して整理することで、人々の心性・霊性のあり方を、新たな形で炙り出してみようとするのが大きなねらいである。
当時、識字率は低く、言葉を<声>に出すことが、現代以上に重要な意味を持っていた。すなわち、<声>は情報伝達手段としてラッパや鐘の音と共にその役割を果たしており 1 、司法手続きにおいても特定の<声>が発せられることで罪の有無が決定されることさえあった 2 。また、中世世界とはキリスト教世界であり、祈りの言葉を<暗誦>できることが、まず信徒として求められており、その後の死者ミサにおける祈りの声の増加を鑑みても、救いに到るための重要な手段の一つが<声>だったように思われる 3 。一方で、<声>に出される言葉が、罵り言葉や無駄なお喋りであればそれはそのまま罪となるような悪徳であった 4 。
以上のように、<声>に着目することで中世キリスト教世界のありようがより活き活きと見えるのではないか。なお、中世世界の言葉の効力に着目し、神学的考察や預言、説教から悪魔祓いやまじないめいた呪文までを扱った論文集『中世における言葉の力 5 』がごく最近出版された点からも、本研究は、西洋中世史研究の最新の動向に沿うアクチュアルな研究であると思われる。言葉がそのものとして効力を持った時代、<声>、及びその逸脱形式である<叫び>が果たした役割とその変容を追うことを通じて、当時の人々の霊性や心性の変容を探ってみたい。
2.研究成果と見通し
現在、博士論文を執筆中である。現段階の章構成や、成果及び見通しを以下に簡単に述べてみたい。
第一章では、キリスト教徒の日常生活における<声>を考察する。第一に「救いを導く声」として、聖務日課や主祷文、天使祝詞などを唱えることがどのように捉えられていたかを、説教関連史料や修道院戒律などから読み解く。第二に「罪、悪徳と関連した声」を神学者の著作などから整理する。第三に「告解、贖罪と声」を神学者の著作やエクセンプラ等の説教関連史料から見てみたい。その際、声と関連させて、<涙>も考慮に入れてみたい 6 。以上の三点を基本的なものとして概観した後、<声>よりも程度の激しい<叫び>がキリスト教世界で持っていた価値観について、聖人伝やエクセンプラ集から探りながら論を進めたい。<叫び>は、あまり良くないものとして、悪魔や狂人と関連して述べられている場合が多い。そのような<叫び>の持つ価値観がいかに機能し続け、一部変化を被ったのかを考察してゆきたい。
第二章では、特に12世紀以降、農業の発展と人口増加で、中世世界において重要な場として浮上してくる<都市>に注目し、そこで形成される兄弟会などの集団における<声>の果たした役割を見る。また、都市では鞭打ち苦行信心会やジェズアーティ会など練り歩きながら<叫び>を上げる集団が多く見られるようになる。そのあり方は第一章で見た<叫び>の基本的な価値観といかに一致していて、いかに発展しているのか。また、戦乱の絶えない都市世界では罵り声も絶えなかった。罪に繋がる罵り声のあり方の実際的様相も考察してみたい。
最後に第三章で、個人的に<声>そして<叫び>の価値観に変化をもたらしたと思われる女性神秘家たちに焦点を当てる。<叫び>を悪魔憑きや狂人の身ぶりとする見方が続く一方、神の御業の現れとする見方も出てくる。また、自らの罪深さを悔いて泣き叫ぶことが、その叫びを聞いている人々を回心させる場合も出てくるのだ。当然、各々の置かれた状況や伝記作者の意図の相違を加味しなくてはならないが、声や叫びの価値観の変化、及び霊性の変化がそこにあることは確かである。元来個別的に、思想内容のみを研究されることが多かった神秘家たちを、<声>と<叫び>の中世史と言う観点から見直しつつ、何か全体的な結論を導くことを今後の課題としたい。
2015年5月
以下、脚注では代表的と思われる参考となる文献を掲載する。
1 Verdon, Jean, Information et désinformation au Moyen Age, Paris, Perrin, 2010.
2 Boureau, Alain, “Une parole destructrice: la diffamation. Richard de Mediavilla et le droit individuel au péché” , in Un Moyen Age pour aujourd’hui : mélanges offerts à Claude Gauvard,Claustre, Julie,et al. (dir.), Paris, Presses universitaires de France, 2010,pp. 306-314.
3 Chiffoleau, Jacques, La comptabilité de l'au-delà : les hommes, la mort et la religion dans la régiond'Avignon à la fin du Moyen Age, vers 1320-vers 1480, Rome, École française de Rome, 1980.
4 Casagrande, C. & Vecchio, S., I peccati della lingua : disciplina ed etica della parola nella cultura medievale, Roma, Istituto della Enciclopedia italiana, 1987.
5 Bériou, N., et al. (eds.), Le Pouvoir des mots au Moyen Age, Turnhout,Brepols, 2014.
6 Nagy, Piroska, Le don des larmes au Moyen Age: un instrument spirituel en quete d'institution (Ve-XIIIe siecle), Paris, A. Michel, 2000.