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研究助成

成果報告

若手研究者のためのチャレンジ研究助成

2012年度

長期紛争の記憶における風景の意味およびその絵画的・触覚的表現についての研究

東北学院大学教養学部 講師
酒井 朋子

 紛争・戦争の記憶というと、暴力的な事件や出来事の経験についての語りや手記が注目されることが多い。だがことば以外の媒体にこそあらわれうる紛争・戦争の記憶というものも、またありうるのではないか。この可能性は、戦争証言の聞き取りに長らく携わってきた研究者らによって指摘されてきたものでもある。本研究は同様の問題意識にのっとり、紛争経験を描く絵画を検討の対象とする。とくに場所や風景のイメージがコミュニティ・アートの中にどのように現れるのかを探求していく。
 焦点をあてたのは、イギリス領北アイルランドの都市ベルファストにおいて数多く見られる街頭壁画である。北アイルランドは、1920年代にアイルランド南部がイギリスから独立したさい、分割されてイギリス連合王国領に残留した土地で、現在の人口は約180万人である。この地ではアイルランド系住民とイギリス系住民のあいだの暴力的な衝突が1960年代から頻発するようになり、その鎮圧目的で派遣されたイギリス軍をも交え、30年以上にわたって紛争状態がつづいた。3500人超の死者を出したこの紛争は1998年の和平協定で一区切りを迎えたが、住民集団間の心理的・社会的分断はいまだに深刻なものでありつづけている。近代西欧の政治体制や価値規範がもっとも確立され・浸透した国家の一つとして思い浮かべられるであろうイギリス連合王国内で、かくも長期にわたって紛争が継続したのである。ゆえにこの紛争の経験について検討していくことは、近代というもののあり方を問いなおす一つの鍵ともなる。ものごとの首尾一貫性をことばによって追求する近代的な物語では表現しえないものを、北アイルランドの街頭壁画のなかに見ることができると思われるのである。

 本研究では、2013年8月と2014年3月にベルファストを訪れ、労働者居住区の住宅外壁に描かれている壁画について調査した。とくに周囲をイギリス系居住区に囲まれた「飛び地」であるアイルランド系居住区ショート・ストランドとその隣接地域に焦点をあて、居住区の風景がどのように紛争経験と結びついて描かれるのかを調べた。興味深い考察を促したのは、壁画に頻繁に登場する造船会社ハーランド・ウルフ社の巨大クレーンである。ハーランド・ウルフ社は有名な豪華客船タイタニック号を建設した会社でもある。近隣地区の壁画でタイタニック号やクレーンを描いたものは、ベルファストがイギリス重工業を牽引する産業都市であった過去と、その労働者階級文化に対する誇りを主題とする。しかしハーランド・ウルフ社の造船工場のすぐ近くに位置しながら造船業における雇用機会を奪われていたアイルランド系住民にとっては、造船所やそのクレーンは、北アイルランド社会が20世紀に長らく抱えた格差と暴力の象徴でもあった。
 その様子は壁画にもあらわれている。たとえばショート・ストランドのある壁画は、パブ(居酒屋)に集う人びとや、その近所で遊ぶ子供たちを暖かく描いているように見える(図)。だがこのパブでは、かつて武装グループの襲撃によって居住区住民6名が死亡している。生き生きとしたつながりをもつコミュニティの風景と暴力の記憶が同時に描かれた、その向こうに、やはり差別や排外の象徴でもあるハーランド・ウルフ社のクレーンがそびえている。
 居住区の風景がこのように両義性をもって描かれる背景には、長期紛争ならではの地域の経験がある。数十年の政治争乱のなかでは、人びとが寝起きし、働き、隣人・家族らと関係をはぐくむ場所が戦場となっていった。「自分の居場所」として愛着を感じ、安心をもたらすはずの場所やその風景が、他方では頻発する暴力への恐怖や耐えがたい辛苦の記憶とも結びついている現象を、ここに見ることができる。こうした重層的な場の感覚は、論理的一貫性を希求せず、相矛盾するイメージや記号を同時に並べることのできる絵画だからこそ、表現することのできたものであろう。
 本研究は、人が戦争や紛争体験についてしばしば辛い感情とノスタルジーが入り交じった複雑な思いを抱く現象を理解するためにも、重要な貢献をしていると考えられる。しかし本研究の考察範囲はあくまで限られたものである。今後は絵画以外の媒体を用いた戦争・紛争経験の表現にも考察を広げていく必要があるだろう。たとえば本研究の計画段階では、紛争経験を表現する裁縫作品の制作活動も調査の対象に含めていたが、時間的制約から十分な調査ができなかった。また、北アイルランドの事例とヨーロッパ以外の紛争地の事例を比較検討したり、あるいは社会的・政治的暴力とコミュニティ・アートの関わりという大きな問題体系のなかに、今回の研究成果を位置づけていく必要があるだろう。いずれにせよ本研究は、今後の研究を進展させる糸口として、有意義な位置を占めるものとなった。



2014年5月

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