成果報告
2012年度
比較文化学の方法論的研究
- 大手前大学 交流文化研究所長
- 上垣外 憲一
世界文化と比較文化
比較文化は、世界文化を意味するが、「比較」という用語を特に用いるとき、そのあり方について一定の了解がある。すなわち、世界文化という単一の文化が存在するのではなく、それぞれの民族の文化あるいは国家の文化が集合して世界文化がなりたっているのである、ということである。あたかも国際連合が、独立した多くの国々の連合体として成り立っているように、である。この場合、「統一性」以上に「多様性」に力点が置かれる。例えば、世界の言語の中で英語が支配的であるといっても、世界の各文化は、各国の各民族の言葉によって考えられ、創造され、表現されている。世界のすべての人が英語だけで世界文化を語ることの貧しさを創造してみれば、この多様性の意味が明らかになるであろう。
一つの中心の文化にすべて世界の他の部分が合わせるのではなく、世界文化は多極である。そうして、それぞれの極は独立であるが、同時に互いに影響し合い、影響されあっている。ライプニッツの言う、「窓の無い」モナド、単子なのではなく、一つの文化体はいろいろな方向に窓多くの窓を持ち、様々な形の交流を他の文化体と行っている。
文化圏の問題
同時に世界の各文化は、今日のいわゆる国民国家単位のみで、上部概念の「世界文化」に属しているのではなく、世界のなかでもいくつかのゆるやかな文化の集合したグループとしての「文化圏」に所属しているのである。例えば、哲学という西洋起源の言語について考えてみよう。東アジアの三つの言語における西洋のPhilosophy の翻訳語はすべて「哲」「学」という二つの漢字を組み合わせた形を持っており、それをそれぞれ日本語、中国語、韓国語の漢字発音を言っている。この東アジア三国について、抽象性の高い言語についていうと、基本的に漢字を組み合わせた翻訳語を用いていて、この点で東アジア三国は「漢字文化圏」に属しているということができる。ところが、言語そのものに焦点をあてると、日本語、韓国語は同じグループに属するが、中国語とは明らかに異なる文法体系を持っている。言語グループで見るとき、日本語、韓国語の属するウラル・アルタイ語族と、中国語の属するシナ・チベット語族の間には大きな亀裂、断絶がある。つまり、文化の様々な分野において、内部のグループ分けは、例えば、中国文化圏、インド文化圏のような大きな分け方(これには一定の妥当性があるが)に一致しない場合も多いのである。したがって、日本は漢字や仏教、儒教などの点で、中国と多くの共通性を持つが、しかし、基層文化や言語の構造などでは、別の一群と共通性を持つ。したがって、文化そのものという統一体はないのであって、多くの「文化要素」の集合体が文化である、ということができる。つまり、中国文化圏、西欧文化圏といったような分け方は、あまりにも文化を中央集権的に捉えすぎているといわねばならない。むしろ個々の文化要素について、他文化の同じ文化要素の比較を行い、それが集合したものが、統合された「文化」である。仮に日本文化が中国文化圏に属すると言っても、日本人が「脱亜入欧」を志向して、古典言語を中国の漢文から西洋の古典語、ギリシア語やラテン語に取り替えようと努力するということがおこる。いままでは百パーセント中国文化に属していると見えていた日本文化は、自らの意志によって、そのパーツを西洋に転換していったのである。つまり、一個の文化体は、変容しうる。自らの集団意志を持つかのように、変わっていく。ある「文化英雄」例えば福沢諭吉が唱道することによって西洋化が起こる場合もあれば、誰言うと無く、味噌醤油からチーズやソースに食べ物の味付けが変わっていく場合もある。しかし、文化はあたかも生命体のように固定された者ではなく、変容していく。また、一個の細胞の構造のように個々の部分と他の部分の関係性は不可分であるのではなく、多くの場合、独立したパーツとして交換しうるのであって、文化は常に他者からの影響を受けつつ、また自らの変革の意志を持ちつつ、変容を続けていく。文化圏概念は、常に割合の問題であって、ある部分は西洋的で、ある部分は中国的で、言語、基層文化においては、韓国やモンゴルと共通というように、実は、様々な色の点が折り重なって、「一個」の文化を創り出しているに過ぎないのである。
静的な文化体、動的な文化体 文化摩擦
それでも、言語の文法体系や新語の造語法(いわゆる形態論)などは、簡単に他のものに交換がきくわけではなく、古典語の交換(漢文からギリシア、ラテン語のように)を必要とすることになるので、それを転換するには時には数世代を要することがある。
文化のパーツの中には、着るもののように、一日で取り替えることができるものもあれば、長い時間をかけて教育の体系を変換しないと、いけないものもある。衣服にしても、その生産工程が絹であるか、木綿であるかは、産業の大きな体系の違いを意味するので、転換には長い時間がかかる場合も多い。
同時に各文化体を支える人々、特にオピニオンリーダーと呼ばれる「世論」を指導する人たちが、文化体を固定的なものと考えるか、流動的なものであると考えるかは大きな違いを当該の文化体にもたらす。一般的には年長者にとっては、既に学んだ文化の体系を年取ってから変換することは困難であるから、「保守的」になるであろう。しかし、文化体の持つ信条体系が、固定的であることをより良いとする場合、若年層から文化の「固守」を志向することになりがちである。それは恐らく、外部情勢の変化が、当該社会の文化の変化を要求しているような場合に、かえって顕著に起こりがちである。何故なら、大きな文化的な変革は多くの場合、それを実践するものに、大きな精神的苦痛を与えるからである。社会全体が、文化上の変革を成し遂げようとする場合、変革について行けない、ついていきたくない人々の数が多いと、「文化摩擦」は過大なものになり、場合によっては社会組織の崩壊、アノミーを引き起こすことになる。少なくとも古代帝国の成立以降、一国や一民族の文化は多くの専門家、専門化によって担われてきた。各、各の専門が互いに調和して、円滑に協同できることが、文化体の構成員の幸福感に大きく関わる。したがって、異なる文化パーツの間の変革の度合いが非常に異なると(文化摩擦の発生)、社会内の調和の感覚が破壊されて、場合によっては成員間相互の憎悪に発展することになる。一国が内戦状態に陥ることは、文化体を統合する紐帯が崩壊したことを意味するが、実はこの人々の精神的連帯を真に支えているものが何であるかを特定することは困難である。長い時間をかけて異質かそれぞれの文化パーツ間の調和が、発酵が徐々にすすむように形成されていくからである。
場合によっては、「キリスト教」とか「イスラム教」のように文化体の統合をすべて支配すると自称する宗教、あるいは教条が出現するかのようであるが、実際には、「異端審問」とか「秘密警察」とかの暴力的支配によって、文化全体をコントロールしようとしているに過ぎない場合が多い。発酵のように自然発生的に生まれた文化体内部の円滑な協同こそが、真の文化体の統合を成し遂げるのである。
文化の成熟と変革の矛盾
例えば日本の平安時代の成熟した貴族文化は、外部との交流が非常に少ない、つまり変革の要素が外からもたらされることが非常に少ない、ある意味で恵まれた状況の中で長い時間をかけて形成されたものである。江戸時代後半の浮世絵や歌舞伎の驚くべき高度な発展も、「鎖国」の産物と言って差し支えない。しかし、自己完結的な、調和的な文化は、結局はどこかで行き詰まりを見せるものである。変革か崩壊は、経済の破綻か、戦争か、多くの場合は両方を伴うことが多い。経済の破綻と戦争は互いに因となり果となるものだからである。有名な仏教信者であった梁の武帝の作り出した貴族的な仏教文化の隆盛が、突然破壊されたのは、果たしてどこに問題があったのだろうか?文化は社会に咲く花であるから、社会が病めば、文化は亡びる。
平和な社会は、社会の上層部にとって常に有利である。社会秩序が安定的である限り、上流社会は経済的な富裕を享受し、優美な文化を生産する。文化の産出は消費であって、次の生産へとは必ずしも結びつかない。したがって、「高度な文化」が栄えているように見えるとき、社会の下層にいる人々はそれに与れない飢餓感を持つ場合が多い。平安の貴族社会の繁栄は、「不労所得」の上にあり、生産者である農民を直接支配する武士が、低級な文化の故に軽蔑されていても、最終的には「実権」を握るようになる。文化は豊かな経済の上になりたつ壊れやすいつかの間の調和であるのかも知れない。文化が安定的であるとき洗練を極めるが、その低層では新たな「粗野」が力を蓄えつつある。新たな粗野の精神は、新たな文化を欲する。鎌倉時代の武士が、禅宗をより好んだのは、対立する貴族階級の宗教である密教があまりにも華美華麗に突き進んだことへの反感であるだろうが、この場合、変革の文化要素は外からやって来た。文化体が調和の中にあるとき、変革は内部からよりも外からやって来る。フランスの貴族文化(ロココ)が敗れていったのは、巨視的に見れば、新たな商業主義、軍事主義国家であったイギリスに世界大の植民地戦争に敗れたことが原因であった。イギリス人はその粗野(海賊精神)の故に、フランスの貴族文化の見せかけの調和を打ち破ったのである。
文化体の見せる調和は、多くの場合、その下に大きな不調和、破壊の要素を潜在的に持っているが、それが顕在化するのは、外からの圧力によってである。内なる不調和が全面的な大きな摩擦を伴う変革に転化するのは、外界との大きな衝突、あるいは外部の文化要素の侵入によるのである。日本の幕末はその一つの好例である。鎌倉時代の文化が、貴族的な密教文化から禅宗に大きく転換するのは、元寇という外圧なしには考えられない。モンゴルの興起そのものが、洗練を極めた中国の宋代文化への、疎外感、飢餓感によって惹起されたのもではないだろうか。
平和的な変革への道
比較文化という学問は、異なる文化体間の関係性を考察するところから始まる。異質な文化が出会い、衝突し、交流するところに何が現象として現れるのかを観察する。あたかも星雲と星雲が衝突しているように見えるようなところに、宇宙生成の謎を解く鍵がある、と考えるのと同じように、である。世界の歴史は、戦争の歴史であった。異なる文化体の衝突から文化の変革が起こることの連続としてそれはあった。そこには多くの破壊と苦痛が伴った。民主主義国家においては、すくなくとも内乱という戦争は、「投票」という流血のない争いを演出することによって、長期間の平和を可能に出来たが、国家対国家の関係においては、戦争を完全に防止することは出来ていない。
文化と文化の対立と統合の問題においては、流血がないとしても、多くの精神的苦痛を人々の間にもたらしていることは事実であるし、またそれこそが、戦争や民族の衝突の原因であるように見えることが多い。
文化の相違に起因する文化摩擦の研究は比較文化の重要な研究テーマである。明治日本の掲げた「脱亜入欧」は、文化の問題であったにとどまらず、大きな軍事的な衝突を引き起こした。しかし、子細に十九世紀日本が経験した文化摩擦を研究するならば、文化摩擦がどのようにして深く深刻な精神的な苦悶を生み出すかの過程を明らかにすることができるであろう。インドや中国の例と「比較研究」するならば、文化摩擦とそれがもたらす精神の荒廃とそれとは対極の精神の高揚のあり方に対する極めて重要な事例研究となるであろう。
文化体は世界に様々な形で存在しており、それが他の文化体と接触し交流するあり方は無限に近いほどであるが、しかし、個々の事例研究を積み上げるところからしか、我々は混沌を明晰に変えることはできないのである。
そうしてその事例研究の分析方法が整理され、体系化されたときにこそ、幸福な形での文化交流が、文化摩擦の代わりに立ち現れるであろう。国際関係論が、国家間の平和を目標とするなら、比較文化は、文化間の軋轢意識の少ない、楽しい文化交流を実現することがその学問の目標であると言って良いであろう。
2013年9月