成果報告
2012年度
道徳認知における知覚の役割
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哲学理論と脳内情報処理の研究 ―
- 日本学術振興会特別研究員
- 太田 紘史
本研究は、道徳性が関わる問題や場面に対して人間がなす認知(「道徳認知」)についての研究である。道徳性を研究する主要な分野は哲学-倫理学であるが、そこではしばしば、道徳的動機づけ、道徳感情、道徳理性など、人間の心理的諸相の本性を前提した理論が構築される。この心理的な本性を研究する分野が「道徳心理学」であり、本研究はその一環として、道徳知覚に関する研究を推進するものである。
近年の道徳心理学ではしばしば、次のように提案される。すなわち、道徳認知においては推論的な処理よりも情動的な処理が先行しており、それが道徳判断に対して決定的な因果的役割を担っている。そしてそれゆえ、道徳判断を非推論的に導くもの、すなわち「道徳直観」は、情動的反応によって構成されるものである――このような見方が提案されてきた。
しかし、非推論的に(直観的に)道徳判断が結果することがあるとしても、そこでの因果的役割が情動に尽きるわけではない。むしろそこには、知覚的な処理が本質的に関わっている可能性がある。本研究では、いままでの道徳心理学で探求されてこなかった、このような知覚的直観の役割に焦点を当て、経験的心理学と哲学的心理学の双方からの知見を総合する研究を遂行した。
まず、経験的心理学の観点から、道徳判断において行為の表象が、以下のような仕方で重要な働きをするという知見に着目した。第一に、行為に関する具体的な情報を与えられるかどうかによって、劇的に異なる道徳判断が帰結する。第二に、行為を表象する神経機能の作動は、有意な仕方で道徳判断に影響している。第三に、行為を表象する神経機能は、知覚的処理経路のなかに(いわゆる「社会的知覚」の経路の一部として)存在しており、意識的推論よりも早い段階で作動している。今回の研究では、これまで断片的に得られてきたこれらの経験的知見を総合することで、道徳直観が知覚的な情報処理に基盤を持つというモデルを提案した。
さらに、このモデルが道徳哲学理論の領域において持つ含意について研究を行った。近年の道徳哲学、とりわけ道徳認識論においては、刺激呈示の仕方による道徳直観の可変性が、その信頼可能性を失わせると論じられている。これはひいては、「直観主義」という名でまとめられる一群の見解(道徳理論の正当化や構築において直観がその足場となる)を棄却するという。これに対して、今回の経験的知見に基づいた知覚的直観のモデルからは、この種の議論が成立しないことが示唆される。このモデルによれば、道徳直観のうちには、知覚的入力に対して安定的な判断出力を与える作動原理が存在しており、直観的判断の可変性はこの知覚的入力の可変性であるに過ぎない。むしろ、入力から出力へとつなぐ作動原理自体は安定的なパターンで機能しているのであり、この点において道徳直観は信頼可能なものなのである。
今後は、このモデルにおける知覚的直観のあり方が、道徳推論や道徳感情といった他の心理的要素とどのように相互作用するのかという経験的総合に加え、道徳認識論としての直観主義において、知覚的直観がどのような積極的な規範的役割を果たしうるのかという哲学的研究を進めていきたい。
2013年9月