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研究助成

成果報告

人文科学、社会科学に関する学際的グループ研究助成

2012年度

現代中国における対日政策の策定・執行と「廖承志集団」
― 対日工作者の人的資源ネットワークに関する実証研究(1949-1972)

東京大学教養学部 講師
王 雪萍

 本研究は以下の諸点を解明することを主たる目的としている。第一に、1949年10月の中国建国から1972年9月の日中国交正常化に至るまでの中国の対日政策に関して、廖承志を中心「知日派」の組織構造を解明すると同時に、こうした知日派のリクルートや人材育成の状況を明らかにする。第二に、毛沢東、周恩来らの中国共産党中央指導者層によるトップダウン的な対日政策方針の提示と、知日派によるボトムアップ的な情報提供、政策提案が如何なる相互作用を有していたのかを解明する。第三に、知日派の対日工作に対して、その主たる工作対象であった日本政府や中華民国政府の認識と対応を明らかにする。
 一連の研究成果からは、中国の対日政策に関して、以下の三つの特徴が指摘できる。
 第一に指摘し得るのは、中国の知日派は、情報提供や政策提言という役割において、対日政策の決定過程のなかで一定の影響力を発揮していたということである。中国の対日政策の組織構造は、その時々日中関係とそれをとりまく東アジアの国際情勢の影響を受けながら、何度かの変遷を経た後、1958年3月の中共中央外事領導小組と国務院外事辦公室の設置により、一応の完成を見せた。むろん、廖承志を含む知日派は、中国の対日政策の決定する立場にはなかった。対日政策の最終決定者は毛沢東であり、政策執行の責任者は周恩来であった。廖承志の役割は、毛沢東や周恩来から発せられる政策方針を知日派に伝達することにあった。知日派はそうした政策方針を学習した後、それぞれの対日業務を実行へと取りかかった。他方、一連の対日業務を通じて得られた情報や、政策に対する提言が、廖承志を通じて、毛沢東や周恩来に伝えられた。
 第二の特徴として、知日派が、廖承志の下、組織横断的且つ広範囲に結集されていたことが指摘できる。知日派がこのような形で結集されたのは、日本との国交がない状況下で、中国側はあらゆる領域における対日交流を、対日政策の手段として遂行していたことに起因する。そして、こうした多岐に渡る対日政策を統一的に管理・運営するためには、「大日本組」と「小日本組」という、二つの組織の存在が不可欠であった。
 第三の特徴として指摘し得るのが、かかる対日政策組織は、明確な法的根拠に基づき制度化されたものではなく、むしろ多分に廖承志との個人的関係に依拠しながら構築されたことである。廖班という中国の対日政策組織は、その時々の状況と事態の性質により形成されるタスクフォースであった。こうした対日政策組織において、廖承志の存在感は圧倒的であった。廖承志は対日政策において、実務統括者、政治的調整者、日中友好の象徴という三つの役割を果たしていた。
 以上の三点を総括すれば、廖承志を中心として組織横断的、且つ非制度的に結集された知日派の集団である廖班という対日政策組織は、廖承志と周恩来の信頼関係を基軸として、情報提供/政策提言という分野において、中国の対日政策に一定の影響力を行使していた、と評価できよう。
 また中国は、日本国内に広範囲な親中派を形成し、「日本中立化」を実現すべく、その対日工作を展開した。中国にとって「日本中立化」は、日華関係断絶を前提とする日中国交正常化を実現し、同時にアメリカの東アジア冷戦における橋頭堡を陥落させることを意味した。これに対し国府は、そうした中国の対日工作を頓挫させ、また中華民国という国家の正統性を確保するため、日本との外交関係を維持することを目指して、自らの対日工作を展開した。このように中国と国府の両者にとって、東アジアの冷戦構造のなかで、日本が有する重要性は大きかった。一方、日本政府や、政権与党たる自民党の政治家たちは、アメリカの冷戦政策の影響も受けつつ、中国と国府の両者の対日工作に対応することを余儀なくされたのであった。1972年9月の日中国交正常化が証明している通り、中国と国府の対日工作の競争は、最終的に中国の勝利という形で終焉することになる。日中国交正常化は廖承志を中心とする知日派による対日工作の大団円であった。しかし、それは知日派による独演ではなく、共演者である自民党内の親中国派が存在してこそ、漸く大団円にたどり着けることが出来たのである。

2013年9月

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