サントリー文化財団

menu

サントリー文化財団トップ > 研究助成 > 助成先・報告一覧 > 近世前期の大坂三郷周辺地域の環境把握とその現代的意義に関する研究

研究助成

成果報告

2010年度

近世前期の大坂三郷周辺地域の環境把握とその現代的意義に関する研究
― 埋立都市大阪の自然環境基盤に着目して

大阪大学名誉教授
鳴海 邦碩

はじめに
本研究は篠山市教育委員会が所蔵する青山家文書絵図を主たる資料とした、淀川下流部および大坂臨海部の環境に焦点をあてた研究である。大坂は中央から派遣される大坂城代等によって支配されていたことと慶応4年(1868)に大阪城が焼失したことに起因し、近世大坂の地域的な様相に関する体系的な史料が地元大坂にあまり残されていない。そのような状況下で旧青山藩の文書および絵図は重要な意味をもっている。

絵図デジタル化の重要性
本研究は、古地図をデジタル化することによって地図のハンドリングを容易にしたことに特色がある。篠山市教育委員会所蔵青山家文書絵図8葉、大阪歴史博物館所蔵絵図3葉を基本的な資料とし、これをデジタルデータ化した。前者の「大坂川口絵図」は255.3×193.4cm、後者の「大坂三郷絵図」は262.7×245.0cmと大判のもので、これをハードコピーのままで読みこなすのは相当の労力を要する。デジタル化によって画面上の移動、拡大・縮小が可能となり、全貌および詳細の読み取りが可能となり、とりわけ環境の把握に役立った。将来的には、他の地図情報と重ね合わせ、時系列的および空間的にハンドリングが容易な地図情報システムへと発展させていきたい。

旧青山藩文書絵図の来歴
青山家初代青山宗俊は、寛文2年(1662)、大坂城代に任じられ、延宝6年(1678)に大坂城代を辞職した。所領は摂津・河内・和泉・遠江・相模・武蔵などを経て、寛文9年(1669)浜松藩に移封となり、延宝7年(1679)に死去、享年76歳。宗俊の後を次男忠雄が継ぐが若くして死去、宗俊三男の忠重が継き、やがて丹波亀山藩に移封。家督を俊春に譲り、後を養子の青山忠朝が継いだ。篠山に国替えになり、宝暦8年(1758)大坂城代に就任した。家系としては2回目の就任であった。篠山藩青山家文書である近世前期の大坂周辺絵図は、青山宗俊が収集し、それが代々受け継がれ、青山忠朝が篠山藩主になったときに、篠山に持ち込まれ、今に至ったと考えられる。資料は浜松に移りそこから丹波亀山へ、そして篠山にたどり着いたと考えられる。

大坂臨海部の埋立の展開と環境変化
先に示した古地図に加え、明治以降に作成された仮製及び正式2万分の一地形を用いておこなった。青山家古地図には埋立地の堤の形状が細かく記載されており、水域も目視で観察された状況がリアルに描かれている。これらの資料を分析することによって、埋立の展開と環境変化を追跡した。これに加え、現代になって行なわれた埋立地におけるボーリング調査の試料から植物痕跡が得られ、このC14分析を行なうことによって時代推定を行なう予定である。

埋立地の活用と定着
古地図を分析すると、埋立が行なわれた後に廃止された、その後また埋立地として現れてくることが読み取れる。これは淀川の水流の制御と関連していると考えられる。埋立地の活用が定着していくプロセスを、新田開発の規模および神社や寺院の立地と関連付けて考察する予定である。また、埋立地は農地としての生産性が必ずしも高くなかったにもかかわらず、どのような理由で町人による埋立開発がこれほどまでの規模で行なわれたについても考察したい。

大坂三郷周辺の埋立地の農業利用
明治以降に作成された2万分の一の地形図をみると、三郷周辺は内陸部も含めて、青山家文書絵図が作成された以降に開かれた農地が大半である。そこで、青山家文書絵図に記載されている集落と、明治以降に作成された2万分の一の地形図と照らしあわせることによって、青山家文書絵図の作成以降に開かれた内陸部の新田集落をいくつか確認することができた。また、青山家文書絵図に記載されている集落の石高、主な産物を、摂津高改帳(1616)、天保郷張(1834)などにより確認し、当時の営農環境について考察した。さらに、かつて地域の中心であった大坂三郷と周辺の農村部がどのような関係にあったかについて考察を深めたい。

大阪の釣りと漁業
淀川河口部および大坂臨海部という豊かな水環境が存在していながら、近世の随筆や図会等を比較してみると大坂では釣り文化が江戸に比べてあまり発展しなかったが、その限りにおいて近世大坂の釣りの状況について考察した。さらに野村豊著『漁村の研究』(昭和33年)で取り上げられている近世大坂の漁師方五ケ村組合(野田村・難波村・九條村・大野村・福村)及び近世の特権漁村であった佃村・大和田村の漁業実態と、先に紹介した古地図と照らし、漁業環境の変化について考察した。あわせて資料として明治16年(1883)の第1回水産博覧会に出品された「摂津国漁法図解(大阪本)」を用いた。

内陸部埋立地の現在
大和川の旧下流部に深野池と新開池という池沼と湿地帯があった。そこは大和川の河道付替え後に埋立てられ農地化した。そこは現在住宅地となっている。住宅地化した経緯と住宅地としての空間的な特徴について考察する予定である。

(2011年9月)

サントリー文化財団