成果報告
2010年度
南方熊楠の環境保護運動と当時のメディアについて
- 京都工芸繊維大学環境科学センター准教授
- 岩崎 仁
南方熊楠の環境保護運動は、1910年頃をピークとする「神社合祀反対運動」と1930年代の「田辺湾神島(かしま)の天然記念物指定運動」が代表的なものである。2009年度の本財団研究助成により「南方熊楠の環境思想・環境保護運動と彼の植物・生態学研究との関係性の検証」の研究をおこなった結果、南方の環境・自然保護運動は、那智および田辺周辺を中心とする紀伊半島における緻密な「自然観察」を基礎としていることがあらためて検証された。さらに、神社合祀の非を訴えた『南方二書』を始めとする文書、新聞投稿記事などが、現在の「環境アセスメント」、すなわち現地植物調査による環境影響事前評価に相当すると推察された。これらの結果を受けて、本研究では、南方の具体的な環境保護運動、彼の植物調査結果、そして新聞や学術雑誌などの当時のメディア、これら三者の関係性を検討することを目的とした。
南方の、当時の主要メディアである新聞の利用について、共同研究者である安田は、「都会から届く『大阪毎日新聞』の記事をもっぱら情報源とする一方で、最初の神社合祀反対意見(「世界的学者として知られたる南方熊楠君は如何に公園売却事件を見たるか」、1909(明治42)年9月27日)を投稿したのは地元の地方紙である『牟婁新報』であり、それ以降も神社合祀反対に関する記事が掲載されたのは、ほぼ『牟婁新報』に限られていた」と過去に指摘している。
南方が神島に初上陸したのは1902(明治35)年6月1日で「昨夜の宿酔にて身体しつかとせず」という状態で、同年8月9日にふたたび足を運び、ワンジュ(ハカマカズラ)、ハマボウ、ツチガキ(ツチグリ)1種、禾本科(イネ科)1種等を採取した。この時期すでに神島が紀伊半島南部の典型的な植生をよく留めていることに気づいたと思われる。神社合祀反対運動の論を張る中で、1911(明治44)年8月6日に牟婁新報に掲載された記事、「神島の珍植物の滅亡を憂いて本社に寄せられたる南方先生の書」で「…此の島の下生えに「バクチノキ」とて…薩州と田辺辺にしか無き物で、昨今勃興の植物所住学(エコロギー)及び従来喧しき分布学上最も保護を加ふべき物として…」と神島の特異な植生を述べている。1925(大正14)年に『牟婁新報』が休刊すると、『紀伊新報』、『熊野太陽』など地元他紙への投稿が見られるようになり、特に『大阪毎日新聞』への投稿が多くなる。そして、昭和天皇へのご進講直前の1929(昭和4)年5月25日から6月1日にかけて「紀州田邊灣の生物」と題する南方の随筆は『大阪毎日新聞』に連載された。その第1回の冒頭では「田辺湾内で目ぼしい処は、何といっても神島」と述べ、ワンジュを始め、キシュウスゲ(キノクニスゲ)、バクチノキ、タブなどの多種多様な植物を紹介している。これらの記事は「神島の天然記念物指定運動」へとつながっていく。1936(昭和11)年8月23日)には復刊した牟婁新報に「新庄村の合併について」を投稿し、その中で「この島の草木を天然記念物に申請したのも、この島になんたる特異の珍草珍木あってのことにあらず。田辺湾固有の植物は、いまや白浜辺の急変で多く全滅し、また全滅に近づきおる。しかるに、この島には一通り田辺湾地方の植物を保存しあるから、後日までも保存し続けて、むかしこの辺固有の植物は大抵こんな物であったと知らせたいからのことである。」として、神島の天然記念物指定運動の目的が、島に残された貴重な植生全体を後世へ残すためであることを明確に述べている。
南方は、近代日本における菌類や変形菌の研究者としても評価されており、国立科学博物館植物研究部には、25,000点を上回る彼の標本が保存されている。これらのうち、菌類標本の採取地を調べると、神島で採集されたものは極端に少ない。神島に残された貴重な生態系を高く評価しながら、彼は自身の植物学研究の採集フィールドとしてはあまり興味が無かったのではないかと思われる。今後は、南方の植物標本等から抽出されるデータを詳細に分析し、彼の環境保護運動、およびそのプロセスを再検証したい。
(2011年9月)