成果報告
2009年度
内閣システムの比較研究
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内閣委員会制度と政治的リーダーシップの構造を中心として
- 学習院大学法学部教授
- 野中 尚人
基本方針と作業ならびにその進捗状況
本研究では、内閣システムの比較をできる限り実証的に行うことを目指している。最終的には、日本国政府全体の統合力や政治的リーダーシップの問題を検討することにつながるが、当面の基本的な課題は、内閣とその周辺の機関がどのように運営されてきたのかについての情報を収集することである。そのためにまず、関係者からのヒアリングを行い、同時にヨーロッパの主要国、特にイギリスやフランスとの比較を進める。
こうした方針の下、2009年度は合計7回にわたって関係者からのヒアリングを実施した。内閣官房長官経験者が2名、現職(ヒアリング当時)が1名、官房長官秘書官の経験者が2名、その他に、政-官関係の問題を考察する上で重要な公務員制度問題について2名の関係者からヒアリングを行なった。
また、英仏を始めとして他の先進国との比較を進めつつ、わが国の過去からの経緯を調査し整理する作業も進めている。特にわが国の歴史的経緯については、メンバーの1人である坂本教授に加え、2人の若手研究者との勉強会を随時開催してきた。これに関しては、2010年10月に開催される日本政治学会でのパネル報告として当面の取りまとめを行い、さらに第2年度の研究へとつなげ充実させるべく進めている。
若干の中間的な成果
第1の成果は、閣議の運営および総理大臣官邸での様々な仕事の進め方について、その実態に関わるかなり詳細な情報を得たことである。2名の官房長官経験者、同じく2名の官房長官秘書官経験者から自民党政権時代の官邸の様子についてヒアリングしたが、その結果、閣議の準備とその実態、総理大臣と官房長官との役割分担、事務の官房副長官と政務の副長官との役割の相違、4省庁から出向している4名の秘書官の役割分担や日々の業務のパターン、内閣官房の事務方の調整作業の仕方など、様々な基礎的だが重要な情報が収集できた。また、国会への対応のパターンとその難しさ、突発的な問題(実はこれが頻繁でその対応に追われている面がある)が発生した場合にはどのような対応を取るのか、など、従来はあまり知られていなかった部分についても貴重な情報が得られた。
比較の観点からこれらの情報を整理すると、次のような特徴があると言えそうである。1つは、事務の官房副長官を中心とする事務方の比重が、組織面でも機能面でもかなり大きいということである。内閣官房には、各省から出向してきた官僚-副長官補を筆頭にかなり多数の審議官や参事官がいる-が組織されており、その機構は基本的に事務の官房副長官によって統率されていたことがわかる。そして、政府内で調整を要する案件のかなりが、この仕組みによって処理されており、官房長官や総理大臣に「上奏」される前に事務の副長官によってかなりの程度スクリーニングされる構造になっていた。もちろん、この仕組みは、官邸の上層部に必要以上の負荷がかからないようにするためのものだったことは当然である。しかし同時に、このメカニズムが官邸における「政治的」要素を極小化する仕組みとして機能していたとも言えそうである。しかも、この行政主導の官邸周辺の構造は、総理大臣ならびに官房長官につく秘書官がどの省からの出向するのかという点で見ても非常に安定しており、同時に役所の縦割り構造を反映していたことがわかる。
ヒアリングなどで得られた情報から得られる特徴としての2つ目は、閣議を中心とした意思決定の構図において、政治的な能動性が極めて制約されているという点である。これはつまり、政治的なリーダーシップや統合力の弱体さを意味すると考えてよい。そしてそれは2つの点で顕著であった。1つは、閣議の形骸化である。閣議の形骸化は、常々指摘されてきたことではある。しかしやや皮肉を込めて言えば、今回の調査を英仏などの国々と比較しても、その形骸化の実態は明らかに他国を寄せ付けない「完璧な」レベルであったと考えて良い。他の先進国でも、報告事項や形式的な承認案件が増加の一途をたどり、政治的な討議を行うことは難しくなってきている。しかし、自民党政権時代の日本の場合は、閣議がほぼ完全な「サイン会」に化していたことは特筆に価する。昨年話題になった事務次官等会議の役割も含めて、政府内意思決定の手続きが極端なまでに定型化され、同時に「非政治化」されていたことは大きな特徴であった。少なくとも、正式の政府内の手続きとしては、政治的な討議ができる限り排除されるような形になっていたと言うことが出来る。
政府内の意思決定において、言わば政治的な能動性を抑止するような傾向は、結局は、閣議を単体で運営し、絶対的とも言えるような時間的な制約の構図を維持し、それを利用することによって成り立っていた。それは、他の先進国で共通の傾向として拡大・充実してきた閣僚委員会のシステムが、日本においてはほとんど無視されてきたことに良く現れている。日本にも、関係閣僚会議は存在していた。しかし、全く似て非なるものであり、討議をする閣議を実質的に維持・強化する仕組みとしての閣僚委員会制度は、日本の場合にはどこにも存在していなかった。(小泉政権時代の経済財政諮問会議が唯一の例外であった考えられる。) しかも、内閣を全体閣議だけでなく、多くの委員会を設置し活用しながら運用する仕組み、つまり「内閣システム」としての政治的な運用は検討さえされていなかったことが今回の一連のヒアリングでわかった。これはやはり深刻な事態だったのではないだろうか。
こうした傾向、つまり内閣レベルでの行政化は一体いつ頃から、そしてどのようにして進められてきたのか、またそれはどのような理由で誰によって推進されてきたのか。これらの点を検討するためには歴史的な経緯の分析が必要であり、坂本教授や若手研究者との共同研究によってこれを進めている。暫定的ながら、少なくとも戦前は、閣議がこうした極度の形骸化に陥っていた訳でもない。政治的な能動性を自ら封じ込めるような方式ではなかったようである。また、戦後の早い時期にも、上で指摘したような後の自民党政権下のような状況ではなかったということが明らかになりつつある。
もちろん、官邸や内閣に関わるこれらの政治制度の運用は、総理大臣や官房長官の個性によって多少の相違が生じていたようである。また、ここ10年ほどは内閣機能の強化という流れの中で、少しずつ運用の「触れ幅」も大きくなってきているようである。しかし、比較を基準として大きく捉え直してみると、上のような特徴づけが妥当すると考えられる。近年発表された他の重要な研究(例えば山口二郎『内閣制度』など)とも照らし合わせながら、一層の検証と分析を進めることが不可欠と考える。
2010年9月
(敬称略)