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研究助成

成果報告

2009年度

日本風景史の構築に向けて
― 環境の表象・創造と風景観の関係

京都大学大学院工学研究科准教授
田路 貴浩

 われわれ風景史研究会は、日本人が環境をどのように風景として発見し、環境をどのように風景化してきたのか、歴史を通じたひとつのパースペクティヴを描くことを目的として研究を進めている。2009年度は本助成金を受け、古代における浄土教の風景、中世における神仏習合寺社の風景、近代に再興された詩歌の風景について研究討議をおこなった。各テーマについての議論の概略は次のとおりである。

1)古代における浄土教の風景
 平安時代中末期に建てられた法成寺や平等院においては、浄土を観想することがその建築の目的の一つであった。宇治別業を喜捨し平等院と改めた藤原頼通は、宇治川とその向こうの仏徳山・朝日山の風景を、浄土教が説く浄土の光景と重ね合わせて見いだしたのであろう。阿弥陀堂から見た朝日は、まさに来迎の光景であった。しかし、頼通没後、阿弥陀堂は浄土の光景を望む場所ではなく、供養の対象として池から仰ぎ見られることになる。眼差しは自然における仏の観想から、建造物における浄土の表象へと転換した。

2)中世における神仏習合の風景
 鶴岡八幡宮寺は鎌倉幕府を開いた源頼朝によって整備が始められ、その後も武家の庇護のもと発展・維持されてきた。そこは「宮寺」の名が示すように神仏がともに祀られ、公的・私的な祈りの場であった。その境内・機構はこれら様々な願いに応えるため、そしておそらくは政治的な意図も含まれながら整えられていったと考えられ、結果多様な信仰の要素を含んだ神仏習合的な風景が造られていった。

3)近代に再興された詩歌の風景
 京都・嵯峨野は、かつて嵯峨天皇が嵯峨院を造営するなど長く宮廷の遊興地とされ、貴族や文人たちは山荘や寺院を造営してきた。藤原定家もここに小倉山荘を営み、小倉百人一首を撰んだとされる。このようにして嵯峨野ではさまざまな風景表現が生みだされ、やがて後世の風景の見方となっていった。そればかりか、近世後期から近代にかけて、かつて詠われた風景や名所が再興されていく。厭離庵もその一つである。こうした行為は風景の捏造のようにも思われるが、風景の再解釈と再生が、嵯峨野の風景資産の保全に一定の役割を果たしてきたのも事実である。

 発生的に考えると、ひとは環境をまず情緒的に把握する。それが次第に有意味化され、世界化される。連続する環境から個別的要素が切りだされ、それらのあいだに意味的な連関が形成され、環境が世界化する。情緒のもとでは、ひとと環境は融合し互換的状態にある。環境の有意味化とともに情緒が消失することもあるが、情緒がその強度を保持すると、風景が生成する重要な契機となる。したがって、風景の根源にはかならずなにがしかの情緒が潜んでいるとも言える。情緒は知覚的感覚に触発されるとはいえ、それとは異なる心的─身体的なものである。また、心性として時代や社会の基層に潜在するものでもあり、これが表現へともたらされ風景となる。情緒の様態とその表現の性格は風景の質をおおきく決定づけるのである。
 こうした観点からすると、平等院では、宇治川越しの山から昇る朝日の神々しさが強い情緒としてあり、それが浄土教の世界観によって解釈され、来迎の光景が生みだされたと言えるだろう。建築物は風景のなかの対象物ではなく、風景を見る場として建造されたのである。
 今後は、情緒ないし心性と表現の性格という視点から他の事例についても考察を進め、比較検討を行っていきたい。最終的には以下の構成でまとめに入る予定である。神社創成の風景、古代浄土教の風景、中世禅院の風景、近世離宮の風景、近代嵯峨野の風景、近代西洋化された都市風景、総括。
2010年9月
(敬称略)

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