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研究助成

成果報告

2009年度

環境劣化とパブリックヘルスの保全をめぐる地域主導の条件:ベトナムとラオスを対象に

慶應義塾大学総合政策学部教授
梅垣 理郎

 世界銀行、FAO,あるいはWHOなどの国際機関の報告を待つまでもなく、開発途上地域の多くで農薬汚染の被害は、農薬投下などによってえる成果を大きく損なう。中でも、人体への影響のコストは大きく、「wealth」の追求は「health」を蝕み、その蝕まれた「health」が転じて、「wealth」自身をも侵食しているのである。
 本研究はこの状況の調査をベトナムとラオスを対象として進めてきた。対象となったのは、ベトナム(中部、1地区、約30世帯)とラオス(南部、3集落約50世帯)である。この二つの社会を観察対象とした理由の特に重要なのは以下の点である。戦後の緊密な関係から両国はほぼ同じころ、市場経済への移行を開始し、その一環として、土地の実質的私有化を開始した。土地の私有化が、農民の間に利潤追求を促進させ、経済発展の不可欠である農業部門の生産性を向上させると理解されたからである。アグロケミカルなど資本財の消費を飛躍的に拡大させるきっかけでもある。同時に、両国はWHOなど国際機関やASEANなど地域組織によるケミカルの規制を多く受けるようになってきており、ともにアグロケミカルをめぐるマクロポリシーの整備は各種法規制の中でも比較的進んでいる方である。ただ、本研究において明らかにしたように、こうしたマクロポリシーは地域レベルで注目できるほどの効果――相応するような農民の行動の変化――を生み出していない。
 地域調査の結果、以下のような観察が可能であった。まず、中央政府レベルで促進されるアグロケミカルの規制を地域レベルで実践に移す制度環境(監視、予防、履行違反の摘発、疾患の特定など)が整備されていないため、アグロケミカルに対する予防・対処は農民個人の裁量に任せられている。ところが、農薬などの使用の効果(収穫増)が比較的容易に認知できるのに比べ、濫用に起因する疾患などは当初頭痛、軽度の皮膚炎などに限られているため、その深刻度を把握しにくい。結果として、ケミカルの使用に対する抑止が効きにくい。
 しかしながら、同じ集落内でも国内・国外市場を前提とした農作物(商品作物)の生産に従事しているか、あるいは過半を世帯消費に充当しているかによって、ケミカル使用に対する抑止の高低が異なることが判明した。前者の場合、外部資本(いわゆるアグロビジネス)によるケミカルなど資本財の投下が前提なるが、市場の動向に敏感な資本側によるアグロケミカルに関する管理が進んでいるからである。いわゆる契約農家の場合、ケミカルをめぐる知識も普及している。ただし、より広く「開発」という観点から見ると、契約農家の場合、1)収入は市場によって大きく左右されるため、価格低下の場合には、そのマイナスの効果が世帯収入に直結してくること、そして、2)生産物価格の低下があったとしても、契約にあたって所有農地の過半を契約生産に投下しているため、収入低減に対する代替策を持たず、世帯福祉のレベルが低下してしまう、という課題を生み出している。すなわち、農薬などのアグロケミカルの管理をアグロビジネスの主導に任せてよい、という結論にはならないのである。
 本研究は当初の意図から見るとまだまだ未完成であるが、今後、持続させてゆくための一つの仮説枠組みを考案することができた。すなわち、経済成長はその初期・中期を通じて農村部門において生産者と消費者との距離を拡大してゆき、この拡大する距離が1)一方で、中間アクターとしてのアグロビジネスによる農薬規制を効果的にするが、同時に、2)規制そのものはアグロビジネス側の主導――生産物の市場向け品質管理――によって進められるために、直接の生産者である農民層の福祉向上と直結するものではない。
 本研究はもう一点、重要な観察を導き出している。すなわち、様々な環境汚染ないし人体への影響を生み出しがちなアグロケミカルの使用について、医療専門家、薬事専門家、水質専門家、土質専門家などなどからの知見を手に入れることは以前ほど困難ではない。しかし、こうした知見は農民の行動の変化を促進される形で統合されることは皆無に近い。結局は、この「統合」――そして、ケミカル使用の抑制――は、土地その他の生活のための資源が最も限定されている開発途上地域の農村世帯に任されてしまう、という皮肉な結果を生み出している。この皮肉には科学的知見を実践的な知識へと加工することの必要性が示唆されているといってもいいだろう。
2010年9月
(敬称略)

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