成果報告
2008年度
西日本の雪舟伝承とその史跡を追う
- 福岡市美術館学芸係長
- 渡邊 雄二
1 これまでの文献、作品中心の雪舟研究を離れ、伝承や遺跡などによりその足跡を考える。
雪舟研究は、それ自体が日本美術史の一つの軸を形成するように東京など中央の研究者によって文献を中心に研究されてきたように思われる。近年は中国や韓国の文献もその範疇に含むなど広がりを見せてきているが、雪舟を「具体的に語る言葉」を見出すことはむずかしい。そこで、我々西国(九州・山口)に住む雪舟研究者としては、地元に残される雪舟を語る言葉に耳を傾けて、そうした言葉の中に「実在した生身の人間としての雪舟像」を示すものがないか検証しようと考えた。
2 雪舟伝承は消えつつある。
雪舟を語る言葉を探すため、まず各地の文化財担当者に伝承の有無を問う調査票を配布した。島根県から沖縄県まで100個所を選んで送付したが、返答は約3割で多くは雪舟伝承はないとの答えであった。これは「雪舟」という存在に対して、各担当者が自らの地域と結びつけることへの躊躇、あるいは伝承を事実と見ない近代の史観などの理由によるものと考えられる。各地域の文化財担当者にもこうした伝承が伝わってこない現状であることを認知した。
3 雪舟庭の真偽
調査は形となって残る雪舟が作ったとする、いわゆる「雪舟庭」を中心に行った。ここでもそれぞれの地域の文化財担当者と話をするに、自ら雪舟庭を肯定する意見は少なかった。どちらかといえばあくまで「伝承」であって、事実とは言えないという立場がほとんどであった。しかし、私どもが伝承の庭を訪ねるに、多くは同様の構成で、どこか製作者を共通にするように見受けられた。そうした庭の存在が町の中の臨済宗寺院に限られたものではなく、山岳信仰の有力者との関連も考えられるような地域(たとえば英彦山七里結界といわれる信仰の領域など)に存在するのを認めざるを得なかった。そこから想定されるのは雪舟が地方においては禅宗など中央の人脈とつながる関係ばかりでなく、山岳信仰の人々、例えば英彦山(福岡県、大分県)の山伏などとも関係が深かったのではないかということである。
4 地方で暗躍する交易の達人
雪舟はなぜさまざまな人と結びついたのかと考えるに西国での活動=大陸との結びつきという文化、経済上の必然性に基づくのではないかと考えた。交易の現場とその周辺の状況は明らかにしがたいが、西国における海や山の勢力と結びつくことは考えやすく、雪舟が渡明した応仁の遣明船などは九州(大分、鹿児島)の硫黄が重要な貿易品であったことも大きな要素かと思われる。雪舟と同時に入明した桂庵玄樹は豊後、薩摩での事跡が知られるが、この硫黄との関わりは看過できないのではないだろうか。そしてほぼ同時期に豊後に滞在した雪舟もけっして無関係とは言いがたいのではないか。彼らは京都など中央へ進出することなく地方文化の交流に尽くした画家あるいは儒者と見られがちであるが、その実態は東アジア(大陸)への最前線に居住する交易の達人達であったのかもしれない。
5 地域調査の可能性
西国においても今日では伝承が消えかかっているが、雪舟庭など形あるものについてはかろうじて残っている箇所が多く、研究者らの視点を伝えると新たな雪舟伝承も形成されそうである。今日の情報、史跡をなるべく記録し、中国地方〜九州地方にかけての雪舟事跡として公にすることができればと考える。
2009年8月
(敬称略)