成果報告
2006年度
1970年代思想の遺産の再検討
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科学技術社会論の視角から
- 大阪大学コミュニケーションデザイン・センター副センター長
- 小林 傳司
1.問題意識
近年、科学技術社会論研究(STS研究)は日本でも一定の認知を受け始めている。しかしこのような研究のルーツは欧米でも日本でも1960年代後半から70年代にあった。しかし、当時の議論は忘れ去られつつある。日本におけるSTS研究の将来を考える上で、1970年前後の科学論の遺産をどのように理解し継承するかを議論しておくことは重要であろう。
そこで、1970年代の科学技術論を改めて振り返り、当時の理論的達成を確認するとともに現在の理論的課題を探ることが重要であろう。
2.成果
2.1. 70年代という問題状況の広がり
本研究を通じて明らかになったことは、1970年代は日本のみならず先進国全体に大きな社会的変動が生じており、科学技術論はそのひとつの表れであるという点である。
社会学者の山崎正和は『柔らかい個人主義の誕生』(中央公論社、1984年)で、70年代以降の社会の変化に注目し、生産優位の産業社会が脱産業社会/消費社会に変貌したことにより、成熟した個人主義としての「柔らかな個人主義」を生み出しつつあるのではないか、と指摘している。同時期に、村上泰亮は『新中間大衆の時代』(中央公論社、1984年)で、やはりこの頃の変化に注目し、産業化を支える「手段的価値群」(勤労、節約、結婚の神聖視、効率性の重視など)が衰退し、高度大衆消費社会の実現とともに「即自的価値群」(個人のその時々の満足という価値の重視)の立場が強まるようになる、と述べている。
他方、西洋においても人々の意識に同様の変化が生まれていることに着目した研究が存在する。例えば、イングルハートは、『静かなる革命:西洋の一般市民のあいだに生じた価値観と政治スタイルの変化』 [Ronald Inglehart, (1977)The Silent Revolution: Changing Values and Political Styles among Western Publics, Princeton University Press, Princeton(邦訳:三宅一郎他訳『静かなる革命』、東洋経済新聞社、1978年)]で、1970年前後の大学紛争などの社会現象に触発され西洋諸国の社会調査による比較を試みている。
彼によれば、欧米でも1970年前後になると人々の価値観に、「物質主義的価値観」から「脱物質主義的価値観」への「静かな革命」が生じたと指摘している。「脱物質主義的価値観」とは、「物の豊かさ」よりも生活の質を求め、個人の自立を尊ぶとともにライフスタイルを自ら選びとり、そのライフスタイルを表現し評価されることを好むという感覚である。環境や人権にも敏感であり、従来の社会秩序を維持してきた体制エリートに反発し、政策決定への参加や地域での活動に関心を向けているという。
山崎や村上がそしてイングルハートが着目した変化は、日本を含む先進国の共通の現象であった。この脱物質主義的価値観と結びついた個人主義は、無責任なミーイズムへとつながる傾向を持つとともに、個別の問題に関する批判的な意識を伴いそれを表現しようとする動きや政策決定への参加へもつながりうるようなものであったように思える。
事実、1970年前後になるとコンシューマリズムと呼ばれる消費者運動など、企業や国家に対して異議申し立てをする活動が増えてくる。いわゆる市民参加型の活動、NPOやNGOなどのはしりがこの時期である。この点で先進国であったアメリカでは、1969年に政治学者アーンシュタインが「市民参加の階梯」という論文を発表している[Sherry R. Arnstein(1969) “A Ladder of Citizen Participation,” JAIP, Vol. 35, No. 4, July, pp216-224]。この論文は、当時アメリカ社会の各層で顕在化しつつあった「実質的な」市民参加への欲求をはっきりと取り出してみせた論文だった。このような欲求は「静かなる革命」とともに顕在化したと考えるべきであろう。
環境アセスメントやテクノロジーアセスメントといった発想が生まれてくるのも、この時期である。ラルフ・ネーダーがパブリック・シチズンというNPOを発足させるのが1971年、アメリカ政府が技術評価局OTAを設立するのが1972年である。先進国では豊かさの実現とともに、脱物質主義的価値観が広がり、消費生活上の商品から、ベトナム戦争、公民権、環境破壊、核実験、フェミニズム、町づくりにいたるまで、さまざまな場面で発言を求め始めたのである。
2.2. 科学技術批判の誕生
このような背景の下で、70年前後に科学批判の声が積極的に上がっていた。例えば、イリッチ、エイモリー・ロビンズ、バーナード・ディクソン、ラベッツ、ローズ、ロベルト・ユンクなどの論者が思い出される。そして、先進国では大学紛争が吹き荒れ、科学技術が体制の補完的存在になっていることを若者は告発した。
科学技術社会論(STS)がこの時期に誕生したことは興味深い事実である。ヨーロッパやアメリカの大学で研究組織が生まれ、学会も誕生していく。日本でも事情はかなり似ていた。この時期には、日本でも科学批判や反科学といった論調の書物は多数出版されている。高木仁三郎、広重徹、柴谷篤弘、佐藤進、生越忠、槌田敦、中岡哲郎、星野芳郎、高橋晄正、宇井純、原田正純、中西準子、中村禎里といった名前が思い浮かぶ。
しかし、日本ではSTSは生まれなかった。もちろん、宇井純の「公害原論」などの自主講座は生まれた。ほぼ同じような状況でありながら、なぜ日本ではアカデミックセクターにSTS的なものが制度化されなかったのであろうか。
その理由として仮説的にいくつか述べておきたい。第一に、このような活動がまさに「運動」であり、当時の大学の「学問」のスタイルと相容れなかったという点である。第二に、体制批判、科学技術批判に取り組んだ人々に見られる一種の潔癖主義である。彼らは科学技術批判のための教育システムを制度化するために戦略的に動くことをためらったように思える。第三に当時マルクス主義の知的権威は高く、冷戦構造もあり、批判的言説は常に体制/反体制という対立構造を前提としていた。川を挟んで石を投げ合う状況であり、橋を架ける試みはほとんどなかった。
3.残された課題
本研究においては、いくつかの課題も明らかになった。その一つは、日本における70年代科学技術批判を担った世代の多くが敗戦期に青春を過ごしたことによって、体制の崩壊や権力組織のみっともない振る舞いを目の当たりにし、根深いニヒリズムを抱き、体制というもの自体への不信を根底に抱え込んでいるように見える点である。これが日本の科学技術批判の「型」にどの程度の影響を及ぼしているかを考察することが課題として残されている。
第二に、70年代に生じた社会の変容はここに述べた以上の広がりをもっている可能性である。今後は、生活様式、風俗、政治システム、学問研究のスタイルや理論に見られると予想される変容を総合的に検討する研究が必要であると思われる。
(敬称略)