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研究助成

成果報告

2005年度

環フィリピン海地域における津波伝承の比較研究
― 琉球列島とフィリピン・ミクロネシアにおけるオーストロネシア系基層文化の神話景観学

沖縄伝承話資料センター主宰
遠藤 庄治

 近年インドネシア・スマトラ島での地震に伴う大津波、あるいはアメリカ・フロリダ州のハリケーンによる町の水没など、大規模な水害が起こっている。このような現象によってにわかに津波あるいは広義の洪水が人類への深刻な災害になってきたという認識が高まっている。
 聖書における大洪水(deluge)は西欧の神話研究では大きなテーマであり、フレーザーは洪水神話は現実に起こった地方的な洪水の誇張された記録であると思われるが、他方、純粋に神話的な、つまり一度も起こったことのないような物語を述べている物も存在することを指摘した。
 「天地創造」は最近の地質学や考古学から言うと無理があるが、地質学では一万数千年前の氷河期の終わりと気温上昇、そして海面上昇による地球規模の大陸水没が確実となっている(例 東南アジアのスンダランド)。このことによって広範囲な陸地の水没と、人類集団の大規模な移住が起こったことは考古学、言語学、遺伝学などから推測でき、そしてその記憶がどう残存したかというのが神話学上大きな課題となる。
 本研究は具体的に起こった大津波や海面上昇の痕跡を追うことで、どのように人類がその記憶を伝承し、また変化するのか、さらに一度物語として定着したストーリーが今度は逆にいかに種々の地理学的現象の説明に使われていくのか、といった自然と文化との間の相互作用を追究する。
 事例のひとつは、300年前に沖縄で起こった明和の大津波である。この事例を中心としながら、さらに時間スケールを広げて、一万数千年前に起こったスンダランドの水没に関係する神話伝承そして遺跡の分布、津波や水没に関連して語られる地形などの関係について、アジア太平洋地域に視野を広げて研究調査した。
 まず沖縄の事例だが、沖縄伝承話資料センターのデータベースによると、宮古や八重山を中心に人魚(ないしジュゴン)が津波を伝えたとか、人魚の懇願を無視して食べてしまったために津波が起こったとする伝承が濃密に分布する。そして津波石をはじめ津波に由来する伝説遺跡がやはり先島には多い。ただし竹富島のように明和大地震の震源地に近いが、津波伝承は顕著でない島も見いだせた。これは珊瑚礁によって津波の被害が少なかったからだと推測され、実際の災害の程度の伝承分布が関連するものと推測される。さらに沖縄の津波伝承には津波返し(久米島と宮古島)、津波を避ける話(天人女房型 「ナーパイ」の起源)、津波と犬婿(宮古・与那国)などの特徴的モチーフが伴う。
 次にアジアの洪水伝承とスンダランドおよびオセアニアへの人類移動についてである。従来、洪水あるいは根源的に水は人間の深層心理の重要なイメージで再生や浄化と結びつくという心理学的な解釈が示され、アメリカの民話学者ダンダスなどは、洪水神話は家父長的なイデオロギーを象徴した創造神話であり、男神が世界を滅ぼし男性を一人だけ生存させ、これが後に人類の祖先となるという。しかしアジアの洪水神話には洪水を起こすのは必ずしも男神ではなく鰻などの水神であるし、また生き残るのは女性(しばしば妊娠した)のケースが極めて多い。女性が男子を産んで母息子の近親相姦がなされて、人類が誕生すると言う意味で、どちらかというと原母型の思考があるように思われる。
 さらに海洋民の間では津波神話が航海渡航による移住神話と密接に関連していることが見いだされた。考古学の知見では東南アジア島嶼部からオセアニアにかけて実際に起こったスンダランドの水没やその後の地質・気候変動という地球規模の災害に起因する海上移動が予想以上広範囲に行われた可能性が指摘される。神話ではそのような大規模な移住の場合、小規模な刳り船(カヌー)ではなく、新型の船を考案したとされる。具体的にはカヌーに側板を継ぎ足す、あるいはカヌーを並べて甲板を作り、その上に小屋を設け、作物や家畜を運んだとされるのだ。この甲板上の小屋の件は今まで聖書のノアの箱船の影響と解釈するのが一般的であったが、オセアニアには実際にカヌーを双胴にして甲板と小屋を作るダブルカヌーが存在した。
 以上、沖縄やフィリピン、ミクロネシアのような島嶼部では洪水神話といっても津波の話が多いが、同時に海上渡航の話も頻出する。大陸部では避水具はヒョウタンとか太鼓とか想像上の手段であることが多いが、島嶼部に於いては小屋付き船の存在も含め、現実に起こりえた海上渡航の伝承と津波神話が密接に関連していることが注目される。

(敬称略)

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