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研究助成

成果報告

2004年度

明治日本の居留地制度
― 周辺地域へのインパクトを中心に

東京都立大学大学院社会科学研究科助教授
五百旗頭 薫

 本研究会は、居留地周辺の事象に広く分析を及ぼすことで、条約改正運動が通説に言われる近代化促進要因としてではなく、阻害要因として働いた側面を析出しようとした。我々が最も恐れたのは、この会が居留地周辺に関する断片的な事実発掘に終わることであった。そこで、外部からの情報提供者の招聘等は原則として禁欲し、資料収集・分析とそれに基づくメンバー内のインテンシブな討論に専念した。今でも各々の研究の位置づけについては議論が終結しておらず、以下に述べることは五百旗頭の文責による暫定的な中間報告でしかない。
 まず我々は居留地貿易を制御する税関、特に税関保税倉庫に着目した。倉庫の提供は税関サーヴィスの水準を図る重要なメルクマールであったが、日本政府による供給は不十分であった。一八八〇年代半ばには外国商人より私設保税倉庫の認可を求める声が高まった。外務省はこれに応え、私設保税倉庫規則を外国と協議して制定しようとする。しかし大蔵省は強く抵抗した。保税倉庫業を外国人に開放し、かつその取締規則を外交交渉の対象とすることは、個別産業政策に対する外国側の介入を既成事実化する恐れがあったためである。
 恐らくこのことと関連して、倉庫業に対する政府の施策は定まらなかった。渋沢栄一・五代友厚等は倉庫業の発展を企図し、それぞれ東京・大阪において大規模な民設倉庫会社を設立した。渋沢・五代等は政府に補助金の交付を度々要求し、かつ保税倉庫も業務の内に含めることを願い出た。しかし農商務省は倉庫会社への補助の要請に対して、倉庫業に関わる規則がないことを理由に拒絶した。ところがその後も規則は制定されず、九三年の旧商法会社編の施行によってはじめて倉庫業の企業組織が整備され、私設保税倉庫が規則化されたのは条約改正後であった。それまでの間、政府は倉庫業を未発達のまま事実上放置したといえよう。
 このような退行的な側面は、他の領域でも見出せる。
 例えば居留地と居留地外を貫通する社会的インフラとしての水道である(松本)。明治前半の横浜を悩ませたのは水道設備の劣悪であった。外務省と神奈川県は、条約改正に好意的な国際的世論を醸成する狙いを込めて水道整備を推進した。ところが主管官庁である内務省との調整が難航し、計画の認可と実施は大幅に遅れた。条約改正という至上命題の故に外務省主導のインフラ整備となり、結果としてインフラ整備に混乱・遅延を招いたといえる。その反動もあって、居留地廃止後は大規模な水道敷設計画が推進された。計画に対して国庫補助をどのように獲得するか、そして水道敷設後は一転して過剰となった水道供給能力を政治的・行政的資源としてどう活用するか、といった水道にまつわる問題が、その後の横浜市政を大きく規定していくことになる。
 生ける者の周辺にある死せる者の埋葬にも分析を加えた(石居)。仏教には火葬の伝統があった。神道国教化政策が退潮し、コレラの大流行に見舞われた明治一〇年代(一八七七年〜)以降、衛生上の観点からも、コレラ患者の遺骸の火葬が行政によって推奨された。しかし火葬・土葬の優劣をめぐる論争は一八八〇年を通じて続き、言説レベルで火葬の優位が確定した後も、事実として土葬と火葬の並存状態が続いていく。土葬が根強く残った理由の一つとして、欧米の埋葬のあり方がある。欧米においてはキリスト教(特にカトリック)の火葬への抵抗が強く、火葬の普及は同時代的な課題であった。先進モデルを可視化するはずの居留地において土葬が慣例であったことは、埋葬における近代的な衛生の確立に対して抑制的に機能したであろう。
 さらに、居留地廃止後の未来像をめぐる論争として、一八八〇年代後半以降の内地雑居論争について検討した(小宮)。
 内地雑居反対派は、日本が雑居に耐えられないという議論を、日本の社会・経済の未発達を相当詳細に指摘しつつ行った。その結果、こうした保守的な言説は、日本の弱い面に配慮する立場を占めることとなり、これに反して進歩的な立場こそ弱者に冷淡である、というイメージが定着して行く。八〇年代前半までの地租軽減論争においては、地租軽減を訴える進歩的な陣営が、政府の施策の犠牲者たる弱者を救済することを要求できた。しかし内地雑居論争においては保守派が弱者を代弁する役割を担った。しかも、政府の施策の停滞・混乱によって日本全体が弱者に留まっていることを前提しており、より裾野の広い弱者イメージを獲得したといえよう。
 以上のような論争の構造は、多分に現代にまで継承されており、それは特に国際化ないしグローバリゼーションの受容をめぐる論争において顕著であるように思われる。明治の内地雑居問題と比肩し得る戦後の争点は、ちょうど百年後に、外国人労働者の導入如何をめぐって八〇年代後半から九〇年代前半にかけて行われた論争であろう。そこでも、日本人は他人に賤業をさせることに苦痛を感じるため単純労働者というカテゴリーがそもそも存在しない、あるいは専門的労働者を日本に受け入れることは相手国の経済にこそ致命傷を与える、といった反対論が、外国という弱者に配慮するという形ではあるが、論争上相当の効果を挙げていたことを想起して良いであろう。
 内地雑居論争を通じて近代日本の保守主義が<弱者の保守>として思想的基盤を拡充し得た背景には、当時の日本の発展段階に対する悲観的な認識があり、この認識を説得的にしていた一つのファクターが、不平等条約下における明治政府の統治が、旺盛な富国強兵という後世の通念とは異なり、必ずしも良好なパフォーマンスを挙げていないという同時代的な不満であったといえよう。
 以上より、不平等条約は日本の近代化の動機を提供しただけでなく、近代化を志向する統治の荒廃ないし停滞を招いていたことが、示唆されたのではないだろうか。もちろん、条約改正を機縁に整備・発展した領域もあったのであり、両者の分類と、両者の関係の分析が今後の課題である。我々の共同研究は、こうした作業に着手するためのささやかな布石になったものと自負している。
 以上のように、助成金を受けてメンバーの研究は進捗し、成果報告を学術雑誌『日本歴史』二〇〇六年一月号に掲載する運びとなった。今後、機会を捉えて論文集という形で出版することを検討中である。少なくとも、各々の成果を学術論文の形で発表していきたいと考えている。
(敬称略)

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