受賞のことば
思想・歴史2020年受賞
『五・一五事件―海軍青年将校たちの「昭和維新」』
(中央公論新社)
1976年生まれ。
京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了。博士(人間・環境学)。
立命館大学文学部講師などを経て、現在、帝京大学文学部史学科教授。
著書 『憲政常道と政党政治』(思文閣出版)、『評伝 森恪』(ウェッジ)など。
本書の完成にはかなりの時間と労力が必要でした。戦前日本の画期となった五・一五事件の裏面にある複雑さは、「話せばわかる」という一言だけでは、当然ながら決して表せないからです。
私はこれまで、昭和初期の政党政治を主な研究対象としてきました。本書で描いた事件後の政局にかかわる元老や政党政治家たちの動向は、自らの蓄積を活かして叙述できました。ただ、なぜ事件が起こったのかという根源的な問いに向き合うには、中心的役割を果たした海軍青年将校たちの動機を追究しなければなりません。二・二六事件関連の重厚な研究に比べて、五・一五事件の海軍将校たちを対象とした研究は乏しく、しかも彼らはそれぞれ強い個性をもつ存在です。さまざまな史料を博捜し、彼らが「昭和維新」に至るまでの感情、心理、そして思想に時間をかけて触れることで、ようやくその一端を表現できたのではと感じています。
事件後に発生した被告たちへの減刑嘆願運動についても、当時の情勢や陸海軍の動向を踏まえて考察しました。相次いで恐慌が頻発するなか、経済運営と富の配分に失敗した政党政治は「特権階級」のみを擁護するものと、多くの人たちが感じていました。怨嗟と諦観が入り混じる人びとの声が、地域に根を下ろしつつあった軍部と結合して、政党や財閥による支配への批判に共鳴していく。事件の被告たちを擁護した大衆社会が映し出す光景からは、格差の拡大、世論の分断といった、現代の私たちとも無縁ではない深刻な様相が浮かび上がります。
蓄積された社会の歪みは、いつの時代も、いかなる予期せぬ形で表出するかは分かりません。将来への茫漠とした不安がある限り、歴史となった五・一五事件への関心は、失われないかもしれないと思うようになりました。
なお事件を描くにあたっては、学術的な批判に堪えうる史料による構成を心がけました。史実の重みが持つ力を信じたい、と考えたからです。とくに事件当時を直接知る世代が去った今、過去を非難して済ませるのではなく、複雑な史実を複雑なままに受け止め、考えるための基盤にできればとの願いがありました。
人文的な知が「人とこの世界」のあらゆることを探究し、理解を深めることを使命とするならば、本書の叙述も受け入れられるのではないか。そうひそかに念じていたところに、今回たいへん光栄な受賞の報せをうけて、力強く背中を押される思いがしました。選考委員の先生方やサントリー文化財団、およびご指導・ご助言を頂いた方々への感謝の気持ちを表するとともに、今後も研究を続け、成果を世に問うていくことを改めて誓いたいと思います。