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サントリー学芸賞

受賞のことば

思想・歴史2020年受賞

梅澤 礼(うめざわ あや)

『囚人と狂気— 一九世紀フランスの監獄・文学・社会』

(法政大学出版局)

1979年生まれ。
パリ第1大学史学科博士課程修了。パリ第1大学史学博士。上智大学大学院文学研究科フランス文学専攻博士後期課程単位取得退学。
日本学術振興会特別研究員(PD)、立命館大学言語教育センター嘱託講師などを経て、現在、富山大学人文学部准教授。
論文 「エクトール・マロとエミール・ゾラ ─ 精神病者に関する法(1838)と文学」(富山大学人文学部紀要68号、2018年)など。

『囚人と狂気— 一九世紀フランスの監獄・文学・社会』

 1843年、フランスの全監獄を独房化しようとする法案が、下院に提出されました。独房については、囚人を錯乱させるおそれがあると国内外から指摘されていました。それにもかかわらず、下院は2週間あまりの議論の末に法案を可決したのです。
 法案はなぜ、多くの議員の賛同を得ることができたのでしょうか。その原因を探るには、半世紀ほど前まで遡る必要があります。監獄が刑罰の場として注目を集めるようになったのは、19世紀初めのことでした。その頃の監獄はあまりに非人間的な状況にあったため、さっそく博愛主義者と呼ばれる人々が改革を試みます。ところが犯罪者数が増えてしまったことから、やがて、感情的にではなく理性的に改革に取り組むべきだとする動きが出てきます。そして現れた自称「監獄学」の専門家たちは、統計を根拠に囚人の健康被害を過小評価したばかりか、犯罪も狂気も生まれつきのものだとする精神科医たちの主張まで支持したのです。こうしたなか、囚人の境遇を哀れんだり、囚人の精神状態を案じる人々の意見は、学問的でないとして退けられていったのでした。
 このことは、あらゆる不幸が「自己責任」という言葉で突き放され、慎重な人々の声が「情報弱者」という言葉でかき消される現代の社会が、内面では近代からほとんど進歩していないことを示しているかのようです。しかし忘れてはならないのが、近代の文学作品の中には、囚人たちやその習俗を積極的に取り上げているものや、彼らの苦悩を代弁しているものが少なからずあるということです。脅威とされる異文化にも関心を示し、その異文化に属する人々を同胞として捉え続けた作家たちの姿勢は、私たちに、近代から抜け出すための鍵のありかを教えてくれているのではないでしょうか。
 このような考えから、本書の出版後、私はエクトール・マロの研究を始めました。『家なき子』(1878)の作者として知られるマロですが、じつは大人向けの作品も多く発表しており、そこでは、精神病院から出してもらえず苦しむ人物や、正義を果たしたものの司法に追い詰められる人物など、近代社会のマイノリティや犠牲者が多く描かれているのです。これまで児童文学作家とみなされてきたマロの社会派作品の分析を通して、今後も人間と社会のあり方を問い続けてゆきたいと思っています。
 最後に、この素晴らしい賞を賜ることができましたのは、これまでの人生で出会ってきたすべての人々のおかげです。とくに、受賞のご連絡をいただいたのは、博士論文の指導教授であり本書にも序文を寄せてくれたドミニク・カリファ先生が亡くなられた直後のことでした。この場を借りて、先生に心からの感謝と哀悼の意を捧げます。

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