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サントリー学芸賞

受賞のことば

政治・経済2020年受賞

酒井 正(さかい ただし)

『日本のセーフティーネット格差—労働市場の変容と社会保険』

(慶應義塾大学出版会)

1976年生まれ。
慶應義塾大学大学院商学研究科後期博士課程単位取得退学。博士(商学)。
全米経済研究所客員研究員、国立社会保障・人口問題研究所室長などを経て、現在、法政大学経済学部教授。
論文 “Are Elderly Workers More Likely to Die in Occupational Accidents? Evidence from Both Industry-aggregated Data and Administrative Individual-level Data in Japan”(Japan and The World Economy 48: 79-89所収、2018年)など。

『日本のセーフティーネット格差—労働市場の変容と社会保険』

 筆者は、「オバマケア」と呼ばれる医療保険制度の改革が議論されている最中に、米国に滞在する機会がありましたが、当時は、「皆保険」がまだ導入されていなかった米国を、日本よりも社会保障制度において遅れた国と見ていました。オバマケアが導入される以前の米国では、貧困者向けの医療制度(メディケイド)に加入するほど貧しくはないが、勤め先の会社で医療保険が提供されない者は、自分で民間保険に加入せざるをえず、そのような者は高額の保険料を負担することができず、無保険になってしまうことが多かったのです。
 しかし、よく考えれば、「皆保険」を誇って来た日本も、非正規雇用の増加に伴って、国民健康保険や国民年金の未納が増えていました。雇用の違いが「セーフティーネット格差」をもたらすという意味では、米国に見られる構図と似ていなくもないと思い至り、そこから、「皆保険」とは何かということを考え出したことが、本書の分析を始めたきっかけです。
 セーフティーネットから漏れ落ちる人びとがいるとすれば、保険適用のレベルで障壁があるのか、あるいは受給要件や給付水準に問題があるのかといったことを整理する必要があります。そのうえで対応策を考えなければ、「我々には『手厚いセーフティーネット』があるが、その恩恵にあずかることができない」といった事態が生じかねません。本書で挙げた「第二のセーフティーネット」は、解決策というより、「そうならざるを得ない」といった論理的な帰結のようなものの一つだと考えています。
 本書では、上のような観点から、労働保険(雇用保険と労災保険)についても取り上げて議論しました。社会保障を専門とする研究者の間では、労働保険の研究は傍流とされる傾向があるように感じられる一方で、労働経済学者は、失業給付がもたらすモラル・ハザードには関心を持ち続けながらも、そこには社会保険の視点は少なかったように思います。本書に、従来の研究に無いものが少しでもあるとすれば、社会保険という観点から労働保険についてもエビデンスに基づく議論を展開した点でしょうか。
 このように本書は、雇用という切り口からわが国の社会保険を論じましたが、新型コロナウィルスの感染拡大によって、現実に、非正規労働者の雇用が危機に晒され、そのセーフティーネットの問題がすぐにも問われることになるとは、執筆時には予想していませんでした。抜本的な処方箋としてベーシックインカムに関する議論も起こっているなかで、本書が、現下のセーフティーネットに関する議論にほんの少しでも示唆を与えることができたら筆者としてはありがたく思います。
 この度は、過分なる賞を頂き身が引き締まる思いです。今後、一層、研究に励んで行きたく考えています。

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