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サントリー学芸賞

受賞のことば

芸術・文学2019年受賞

鈴木 聖子(すずき せいこ)

『〈雅楽〉の誕生―田辺尚雄が見た大東亜の響き』

(春秋社)

1971年生まれ。
高校卒業後フランス留学を経て、雅楽演奏、楽器調律、楽器製作補助に携わる。東京大学大学院人文社会系研究科博士後期課程(文化資源学)単位取得退学。博士(文学)。
現在、フランス国立パリ・ディドロ(パリ第七)大学東アジア言語文化学部日本学科助教。
著書 『伝統を読みなおす1 日本文化の源流を探る』(共著、京都造形芸術大学出版局)など

『〈雅楽〉の誕生―田辺尚雄が見た大東亜の響き』

 雅楽という、能や歌舞伎と比しても現代社会では触れる機会の少ない伝統的な芸能の研究について論じた本書に、かくも栄誉ある賞を賜り、光栄に思います。関係者の皆様には心から感謝申し上げます。
 雅楽とは何でしょうか。以前、私が雅楽の仕事に携わっていた頃、コンサート、小学校の音楽の授業、寺社のお祭りや法要で、この質問を受ける機会が多くありました。そうした際に答えるのは、「古代から平安時代に発達し、それから変わらずに皇室で演奏されている音楽です」「雅楽には三種類の音楽があります。皇室の神楽など日本固有の音楽と、中国大陸から入ってきた音楽と、それらを基に作った日本の歌曲です」という、音楽の教科書や辞書にある内容に集約されるものでした。この「変わらない音楽」「皇室の音楽」などの、音楽に冠されたいささか窮屈な表現に、私は少しずつ息が詰まりそうになり、呼吸の方法を探すうちに、研究者としての道を歩み始めました。
 この現在にみる「雅楽」の言説が誕生した歴史を辿ると、「日本音楽研究の父」であり、「日本初の民族音楽学者」であり、本書の主人公となる田辺尚雄という人物に行きつきます。田辺の「雅楽」は、確かに、「古代から平安時代に皇室文化のうちに発達して、現在まで変わることなく伝承されている」というもので、今も日本の文化的アイデンティティを支える機能を果たしているといえます。
 しかし実は、これはその創出時である大正時代においては、明治維新から明治末期までに形成された「皇室の音楽」としての閉じられた「雅楽」を、「芸術」として解放しようとした革新的な運動の産物であったのです。ドイツの最新の音響物理学を学び、西洋古典派ロマン派の音楽を愛した田辺において、雅楽を「芸術」の名のもとに万人に開こうとする行為は、近代知識人としての使命だと考えられていました。
 ところがこうして誕生した「雅楽」が、昭和初期の植民地主義、大東亜共栄圏の構想、そして戦後の復興などの枠組みを通して、田辺自身とその周囲によってむしろ保守的な様相をもたされ、その後、版を重ねられるに至ったというわけなのです。これらのことからは、雅楽のみならず伝統的な文化についての言説とは、保守と革新の切れ味の良い諸刃を持つ剣であること、ゆえに現在の私たちが改めて責任を持って研ぎ直し、再利用可能な形で未来へと渡す必要のある文化資源であることが理解できます。
 今後は、戦後の音楽芸能についての言説が、社会的な運動においてどのような機能を果たしてきたか、そして私たちがそれを未来へどのように受け渡すか、音楽芸能の現状調査と合わせながら考察を深めたいと思います。

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