サントリー文化財団

menu

サントリー文化財団トップ > サントリー学芸賞 > 受賞者一覧・選評 > 阿部 卓也『杉浦康平と写植の時代―光学技術と日本語のデザイン』

サントリー学芸賞

選評

社会・風俗2023年受賞

阿部 卓也(あべ たくや)

『杉浦康平と写植の時代―光学技術と日本語のデザイン』

(慶應義塾大学出版会)

東京大学大学院学際情報学府博士課程単位取得満期退学。
ポンピドゥセンターリサーチ&イノベーション研究所(IRI)招聘研究員などを経て、現在、愛知淑徳大学創造表現学部准教授。
著書 『ハイブリッド・リーディング』(編著、新曜社)など。

『杉浦康平と写植の時代―光学技術と日本語のデザイン』

 歴史や思想、思いを表すために私たちは文字を使う。しかしその文字のデザインそれ自体のうちにも、すでにして歴史や思想、思いがある。本書の主題のひとつは写植だが、まさに文字のひとつひとつの佇まいを丁寧にたしかめ、味わい、焼き付けたくなるような名著であった。
 たとえば、杉浦康平のあの独特の文字詰めの技法。その拠り所になっていたのは、彼が親しんでいた筆書きであったと言う。文字とは本来、書き手の肉体性や身体運動の痕跡であるはずだ。印刷技術の時代に、どうすれば活字に書を与え直すことができるのか。つまり杉浦のあのツメツメのタイポグラフィは、ただ詰めることが目的なのではなく、意味の流れや書く人の息づかいが作り出すリズムを可視化するためだったのである。さらに、1960-70年代の日本における外来語の増加という時代背景も加わった。意味の厚みも歴史もないカタカナにいかにして書字的美しさを与えるか。文字のデザインは、日本語と日本文化の問題とダイレクトにつながっている。
 邦文写植機を発明した石井茂吉と森澤信夫の運命にもハラハラしてしまう。二人の出会いは遡ること1920年代、場所は何と星製薬である。なぜ製薬会社から写植が生まれたのか?星新一の父・星一(はじめ)が創業した星製薬は、新薬の開発ではなく、既存薬品の日本版を自社製造することを得意としていた。その際、力を入れたのがマスメディアを用いた宣伝である。星製薬は社内に印刷工場を持ち、欧米の写植機をもとに邦文写植機を開発。しかし、開発に携わった二人の社員、石井と森澤は、人間としてあまりにタイプが違う。石井は東京帝国大学工科大学を出たエリートである。一方の森澤は小学校卒。麺類の製造機械を作っていた家業の工場で、我流で技術を習得した。結局、邦文写植機を共同開発したあと、二人は東京と大阪で別の道を歩むことになる。
 本書の魅力は、膨大な資料やインタビューにもとづく史実にズームインして高密度で記述する一方、それを突き破るようにして「文字とは何なのか」のようなスケールの大きな本質的問いへとズームアウトしていく、その目も眩むような、それでいて深い納得を伴う往復のリズムにある。自らが語る対象へと接近していく深い愛と、そこから決然と距離をとろうとする批評的まなざし。著者は言う。「人間の心の中では、瞬間的・情動的な反応と、理性的・論理的な判断といった、段階の異なる活動のあいだに、截然とした線を引くことはできない。それはむしろ、溶け合って連続したマグマのようなものとしてある。そして、ある個人が内面における坩堝(るつぼ)で迷い、結果を宙吊りにしているあいだにも、集団的な力学や技術革新の決定性によって、時代は不可逆に進んでいく」。本書の登場人物が、「溶け合って連続したマグマ」を生きているのと同様、著者もまた、その同じ振れ幅の中で書いている。本当の誠実さとは熱く、そして同時に冷めたものなのだろう。

伊藤 亜紗(東京工業大学教授)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

サントリー文化財団