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サントリー学芸賞

選評

芸術・文学2023年受賞

菱岡 憲司(ひしおか けんじ)

『大才子 小津久足―伊勢商人の蔵書・国学・紀行文』

(中央公論新社)

1976年生まれ。
九州大学大学院人文科学府博士後期課程単位修得退学。博士(文学)。
有明工業高等専門学校准教授などを経て、現在、山口県立大学国際文化学部准教授。
著書 『小津久足の文事』(ぺりかん社)など。

『大才子 小津久足―伊勢商人の蔵書・国学・紀行文』

 この本は、一般的には無名と言ってもよい江戸時代後期の富裕商家で文人である小津久足(おづひさたり)の生涯を追い、当人の営為から同時代の多様な言説空間を一望できるように構成された研究成果である。江戸文芸に限らず、近世思想と社会史に関する新しい知見に満ちている。久足は、生涯に紀行文を40数点著述しているが、広くは普及しづらい写本として伝わり、その大半が未翻刻で著者自身による読解を経て初めて読者の目の前に現れる。その作業だけでも高く評価すべき事柄だが、一次文献に即し一生の経過と著作を丁寧に描いたモノグラフであると同時に、そもそも人文学という学問領域とは何か、その研究対象とはどのようなもので、手法としてどうアプローチすべきか、という根本的な問いかけを私たちに投げかけるきわめて重要な学術的発信であると言わざるを得ない。
 江戸時代の文芸を知ろうとする者は、現在の日本で「文芸」と目される著述とその作り手、あるいは作り手の言論環境にだけ注目していては不充分である。むしろ文と理を峻別する19世紀ヨーロッパの分類思考から一度離れ、同時代の日本列島において認識され通用した「文芸」(のようなもの)のプラクティスを視界に収めてはじめて日本の言語文化の幅と深度を推し量ることができる。物語(小説類)と詩歌を基軸としたジャンルの外部にも目を向ける本書にはそのような遠心力が発揮されている。
 久足は紀行の他には本居宣長の孫弟子として国学を修め、古代考証と作詠に熱中するが、やがて一門との距離をおき、離反をして、いわゆる古道論を否定するまでに思考を転換させている。実際に生きている現在への傾斜を深める過程において、歌も散文も、「ありのままを表現する」立場を確立していく。その射程につながる結節点の一つひとつを掘り下げるかたわら、著者は同時代の他の地域と出来事を視野に入れ、久足の様ざまな営みの相対化を図っている。干鰯(ほしか)問屋という家業を司る立場から導かれる経済活動が、縫い目無く地理学、古典学、詩歌、本草学、物産学、海外情報などにまで広がる関心と行動の半径を押し広げていたように見受けられる。著者はその構図を精緻に描くことによって、近代へと向かう日本の学芸史・文芸史そのものの輪廓を新たに提示することに成功している。
 久足は曲亭馬琴の年下の友人で良き理解者、馬琴作品のファースト・リーダーの一人として従来の近世文学研究ではある程度の注目を集めている。膨大な蔵書家でもあり、近年の研究では、久足のことを当代のもっとも優れた知識人の一人として定位する動きもある。本書で著者は、膨大な文献を渉猟し選別する能力と、自らが実証に基づいて得た知見の総合化を通して、時代の文芸の新たな地図を描こうとしている。平易で読みやすい文章と、鮮やかな論の運びが相まって多くの可能性を示していることにおいても高い評価に値する。

ロバート キャンベル(早稲田大学特命教授)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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