選評
芸術・文学2022年受賞
『舞台の面影—演劇写真と役者・写真師』
(森話社)
1982年生まれ。
明治大学大学院文学研究科演劇学専攻博士後期課程単位取得満期退学。博士(文学)。
日本学術振興会特別研究員PDを経て、現在、明治大学兼任講師、青山学院大学非常勤講師を務める。
著書 『演劇とメディアの20世紀』(共著、森話社)など。
好きこそものの上手なれ。著者は少女時代、しばしばお母様に連れられて東京宝塚劇場で宝塚歌劇を観、行く度に宝塚グッズの物販店でブロマイドや舞台写真を買って貰っては、お菓子の空き缶に入れてコレクションしていたという。中でもお気に入りは、雪組の鮎ゆうきが『ベルサイユのばら』のロザリーに扮した舞台写真。長いこと自室の壁に飾って、憧れを日々に新たにしていた。本書のあとがきに、そう記されている。
この育ち方あっての本書であろう。人は憧れしものの面影を追うようにできている。長谷川伸の『瞼の母』ではないが、本物を抱けねば似姿を求め、そこから本物を想像して、思いに耽(ふけ)る。銀幕の面影に憧れれば、プログラムや映画雑誌を買い漁り、スチール写真を眺め、映画館での記憶を忘れぬようにと努める。舞台の面影を追うとなると、思いはなおいっそう切実であろう。映画みたく複製芸術ではない。その日の舞台は一期一会。好きな芝居ほど後に引きずる。ゆえに劇場には物販場ができる。その種の欲望を満たす業界も成立する。“面影産業”とでも呼べばいいか。
たとえば、江戸時代の歌舞伎なら錦絵である。だが、豊国や写楽の時代はいつまでも続かない。幕末維新期から写真が広まる。絵画から写真へ。視覚メディアの大変革期の到来。けれども、その探究は容易でない。絵画史と写真史を股にかけねばならない。技術史的観点も必須となる。並みの博捜では追いつかない。ましてや、芝居の錦絵から演劇写真へ、さらに写真本位の演劇雑誌へという流れとなると、それはむろん演劇史であると同時に、メディア史・出版史にもなって、土俵はますます錯綜してくる。よほどの好き者でないとやりきれない。
ところがそういう好き者が現れた。本書は、ほとんど未踏の密林を、前代未聞の深さと広さで掘り起こしている最中に編まれた、経過報告書であろう。しかし、その内容は既に十分に驚倒物。史実に照らして「嘘のない歌舞伎」を目指した九代目市川團十郎の活歴物の背景に、嘘なくありのままを写し伝える写真の登場の齎(もたら)した感性のパラダイム・シフトを読み取る。五代目尾上菊五郎の情感豊かな演技術を記録しようとするとき、写真の顔に影が付けられたことに注目し、同時代の横山大観の陰影を強調した画法にまでさらりと話を及ぼす。本邦における近代人の心の奥行きの誕生過程を巡るとてつもない示唆がある。他にも魅力的論点多数。演劇写真が面影を留めるための単なる道具というだけでなく、演劇の質を変革して行く大きな起動因となったらしいことに筆が及んでいる。画期的である。
そうした作業を可能ならしめているのは、ひとえに著者の汲めども尽きぬ想像力と思う。本書には、後の新劇の名女優、田村秋子が、少女時代に『演芸画報』のバックナンバーを眺めてはまだ観ぬ舞台を思い描いて時を忘れる挿話が紹介されているが、それはまさに著者の面影に重なろう。とにかく、見事に探し出された細かな資料から、その時代の写真師、役者、観客の心根を摑まえる著者の力量は並大抵ではない。アナール派も驚く感性の歴史学の成果ではないか。
本書は内容豊富でありすぎるがゆえに、残された課題もまたとても多い。たとえば七代目松本幸四郎の一種の変装を記録した顔写真の話は新劇史に架橋して大著になりうる気もする。今後に期待する。
片山 杜秀(慶應義塾大学教授)評
(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)