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サントリー学芸賞

選評

芸術・文学2022年受賞

奈倉 有里(なぐら ゆり)

『アレクサンドル・ブローク 詩学と生涯』
を中心として

(未知谷)

1982年生まれ。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得満期退学。博士(文学)。
数多くのロシア文学の翻訳を手がけつつ、現在、早稲田大学などで非常勤講師を務める。
著書 『夕暮れに夜明けの歌を』(イースト・プレス)

『アレクサンドル・ブローク 詩学と生涯』を中心として

 2002年、ロシア語を学ぶある日本人女性が単身ロシアへ渡った。語学学校を経て国立ゴーリキー文学大学に入学し、たくさんの人や本との出会いを重ねながら日本人として初めて卒業し、「文学従事者」なる資格を得た。帰国後、日本の大学院で執筆した博士論文に基づく本書『アレクサンドル・ブローク 詩学と生涯』は、日露で教育を受けた稀有な経歴の持ち主が結実させたハイブリッドな研究書にほかならない。
 ブロークは20世紀初頭に活躍したロシア象徴主義を代表する詩人。著者のブローク熱は本物で、本書は大枠として芸術家の生涯と作品という正統的な評伝形式をとり、一方で、ブロークの人生に関して徹底的に資料を調査し、家庭環境、恋愛や結婚、友人関係、革命に絡む悲劇的な最期などを冷静に跡づける。他方で、最初の詩集『麗しの貴婦人の詩』から晩年の物語詩『十二』にいたるまで、暗喩や曖昧さを孕むブロークの詩を丹念に解きほぐし、その詩学を浮かび上がらせる構成となっている。とはいえ、著者はブロークの詩の内実と意味を、世紀末の芸術家を演じたかのようなその人生に単純に還元するのではなく、またさまざまな文学的、思想的な影響関係の網の目を透かして安易に説明するのでもない。
 本書の眼目は、バシュラールの『火の精神分析』を導きの糸とし、ブロークの詩に一貫して見られる「火」のイメージとその変容を析出する企てにあり、詩作の根源にある動因とその多様な表れを追跡するプロセスが読みどころとなる。最初は理想や情熱とつながっていた「火」(火花、焚火、火の輪、夕焼けなど)は、やがて死や災厄に近しい形象を取り込み(焼死、火災、戦火など)、無や消滅のテーマとも親和性を持つ(街灯、消える火、煙など)。「火」はまた雪や闇などと対比的な関係を取り結ぶようにもなり、ブローク独特の矛盾する言葉の並置や多義性をも統御していく。付け加えれば、簡潔な言葉が喚起する形象や色彩が鮮やかに際立つ、視覚性に優れた詩とも評者には映る。いずれにせよ、詩人の内的な叙情の世界が時代の空気や社会の亀裂と感応するその作品は、現代のわれわれにも響いてくるようだ。
 ただし、ロシア語を知らない日本の読者にとって、著者が強調するブローク詩の韻律の素晴らしさを、翻訳を通じて味解するのは難しい。音を重視し、朗読を前提として作られているブローク詩の魅力、ロシア語独特の良さを伝えることは、すでに翻訳家として活躍する著者の今後の課題となろう。
 ほぼ同時期に刊行された著者の自伝エッセイ『夕暮れに夜明けの歌を ― 文学を探しにロシアに行く』(イースト・プレス)を併読すれば、本書への興味はさらに増す。言葉と文学と学問への愛を披瀝し、ロシアの友人や教師たちとのかけがえのない交流を綴った快作である。「文学が好きだ」を言い切る爽快さ、分断された世界を言葉でつなごうとする志は貴重であり、いわゆる学術賞とひと味違うサントリー学芸賞は、多彩な才能を開花させる期待を込めて、「文学」に生きる著者に贈られる。  

三浦 篤(東京大学教授)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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