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サントリー学芸賞

選評

芸術・文学2022年受賞

邵 丹(しょう たん)

『翻訳を産む文学、文学を産む翻訳—藤本和子、村上春樹、SF小説家と複数の訳者たち』

(松柏社)

1985年生まれ。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得満期退学。博士(文学)。
日本学術振興会特別研究員(DC2)、名古屋外国語大学教養教育推進センター専任講師を経て、現在、東京外国語大学世界言語社会教育センター専任講師。
論文 「第三の次元に属する現代語 『対話』としての世界文学」(『ユリイカ』2022年8月号所収)など。

『翻訳を産む文学、文学を産む翻訳—藤本和子、村上春樹、SF小説家と複数の訳者たち』

 異なった言語や文化をつなぐ存在である翻訳は、それ自体魅力的な研究テーマでもあるが、翻訳というと、どうしても元のテクストの意味がいかに正しく伝わるかという点からばかり考えがちになり、訳した側の文化の方からものを考えるような議論にはなかなかなりにくかった。しかし、文学作品が国境をこえて世界的な広がりをもつようになり、「世界文学」的な発想が広がる今日、「トランスレーション・スタディーズ」などの名で呼ばれる新たな研究が進み、翻訳の周辺には新しい景色がひらかれてきている。翻訳された先の新たな文化的コンテクストのなかで、元の作品にはなかった展開が生まれ、時には新たな創作を誘発するなど、その文化のあり方全体を変えてゆく力になる、翻訳のそんな側面に焦点があてられるようになったのである。
 本書は、このような新しい見方をふまえて、それを1970年代の日本に適用したケース・スタディとして、翻訳論の豊かな可能性を具体的に示した快著である。1970年代といえば、村上春樹、高橋源一郎などの世代の作家たちが日本文学界の状況を大きく変貌させる動きの「前夜」にあたるが、この時期にはリチャード・ブローティガン、カート・ヴォネガットといったアメリカ文学の新たな潮流を代表する作家たちの作品が次々と翻訳され、活況を呈していた。
 本書は、1970年代のこれらの翻訳を、こうした日本文学の新たな動きの動因として捉えるものだが、その最大の特徴は、両者を因果関係で安易に結びつけるのではなく、これらの翻訳自体とそれを担った翻訳者たちに焦点を定め、その来歴や活動の文脈にまで分け入って考察することで、これらの作品を受容する日本文学界の側に新たな時代の感性が形作られており、それがこうした動きを可能にしていったという構図を浮き彫りにしようとしたところにある。
 ブローティガン作品の翻訳の多くを手がけている藤本和子の活動を論じた章では、藤本が1960年代にアングラ演劇に関わり、またアメリカで黒人女性などの差別をめぐる対抗運動に接するなどした来歴が徹底的に洗われ、そのような同時代的風土に培われた藤本の感性が、従来にない翻訳上の考え方やスタイルに流れ込んでいったさまが描き出される。
 また、ヴォネガットの作品については、当初SF界の翻訳者たちによって訳され、その世界で受容されていた事情が考察され、主流文学の世界にそれがSFの枠をこえて流れ込んでくることで、新たな感性がもちこまれ、文学界の再編成へとつながっていった経緯が余すところなく描き出される。
 文学の話をはるかにこえて、背景にあるこの時代の文化の重層的な文脈が次々とあぶり出されてくるさまは、まさに圧巻というほかはないが、このような手法は今後、他の人文諸学にとっても大いに参考になるだろう。
 この博覧強記の塊とでも言うべき研究をなしとげたのが、中国から留学してきた若い研究者であるということには驚くほかないが、そのこと自体がまさに、異なった言語や文化がつながり、新たな広がりが作られてゆくプロセスを体現したものになっていることをあらためて実感するとともに、それが見事に結実したこの成果の誕生を喜びたい。  

渡辺 裕(東京大学名誉教授)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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